曽我逸郎

母が死んだ。


2007年6月23日

 昨日、母が死んだ。なんだか、カミュの書き出しのようだ。八十八歳だった。

 午後、村内各地区の保健部長さんたちとゴミ関係の視察に行ってきて、帰ってきた夕方、これから会議、その後懇親という時、妻から携帯に電話が入った。
 「おばあちゃんの様子がちょっと悪い。加藤先生にも往診をお願いした。今日は早く帰って」と言う。

 冒頭の挨拶だけで会議を出て、雨の中六時過ぎ家に戻ると、母は、痰というより水がこぽこぽいうような音を立てて、胸で荒い息をしている。すぐに加藤先生と看護師の川崎さんも来て下さった。吸引器で痰を取りながら、
 「これは重篤ですね。病院ならICUのレベルだ。しかし救急車で行っても、着くまでもたないかもしれないし、ICUに入っても格段の処置ができて回復するという様子でもない。廊下でただ待たされるよりは、ここで横に付き添って見送ってあげたほうがいいかもしれない。早ければ30分位かも。」

 そんなに急だとは思っていなかったので、驚いた。痰をとってもらっても、すぐこぽこぽいいはじめる。注射も二本ほどして下さったが、指先で血液中の酸素を測ると、測るたびに数値が下がっていく。むくんでいる左手のほうが高い。やがて、水の音がしなくなり、呼吸が穏やかになってきた。

 ここ数日、熱が上がったり下がったりしていたのだけれど、そういうことはしょっちゅうなので、さほど心配していなかった。水曜日に先生に見て頂いたときも普段と大きな違いはなかったのだが、一昨日夕方からまた高くなって、昨日の夕方から息が少し荒くなっていた。冬に脳梗塞がでたのだが、そのベースの上に、感染症が入り、急性の心不全を起こしているとの診断だ。

 子供の頃の母は恵まれない家庭環境だったようだが、学生の時はコーラスで独唱をしたり、軟式テニスで国体に出たり、結構華やいだ時期もあったようで、認知症が軽度の頃は、学生時代のことばかりしゃべっていた。結婚してからはまた不幸で、女手ひとつで私を育ててくれた。けしていい人生ではなかったし、感情の起伏も大きかったが、明るい性格でおちゃめな所もあり、元気な人だった。

 認知症が始まったのは、まだ七十歳代の頃で、「屋根の上に人がいる」とか馬鹿なことを言うので、こちらも乱暴な対応をしていた。引越しが多かったのも良くなかったように思う。次第に何が言いたいのか理解できる内容ではなくなり、私もおざなりな相槌を打つようになった。人前でも気にせず大きな声で歌を唄った。そのころから、私のことも分かっているのか分かっていないのか、やがて、センテンスのみならず、単語まで崩れていった。両側の股関節を続けざまに折ってからは、車椅子の生活になり、脳梗塞を起こした後は、ベッドに寝たきりの生活で、ほとんどずっと居眠りをしている状態だった。食事をしていても眠り始め、気をつけないと食べ物が気管に入ってしまい、コホコホと咳き込んだ。

 昨晩は、先生と看護師さん、私と妻と一番下の子と妻の母で見送った。熱が徐々に下がり、呼吸は、静かな湖の船の波がだんだんだんだんとおさまっていくように、少しずつ弱くなっていった。先生が水を含ませた脱脂綿で唇をぬらすと、吸うような反応を見せる。
 「この反応は、意識がなくなっても不思議とぎりぎりまで残るんですよ。」
 しかし、それも現れたり現れなくなったりしていった。

 普段、車を運転をしていると、ネコやタヌキが轢かれているのを時々見かける。通り過ぎながらいつも、「怖かったね。大丈夫、心配しなくていいから。力を抜いて。気持ちをゆるめて、ほどいて、」と語りかけている。お葬式でも、お焼香のとき遺影に向かって同じようにしているのだが、昨晩も、手を握り、額をなでながら同じように念じた。ゆっくりゆっくりと静まっていき、「今のが最期の息だったか」と何度か思ったが、そのたびにまた小さなしゃっくりのような吸う息があり、それでもついに、喉の奥でコクク、ココクと二回かすかな音がして、次の息は現れなかった。夜九時をほんの少し回っていた。

 いずれこういう日の来ることは、前から分かっていた。私には、釈尊の教えについて、自分なりの考えがあり、こだわりもあるので、母をどう送るべきか、時々考えていた。今の日本の葬式はしたくない。しかし、自分のことならどうにでもできるが、母のことを好き勝手にしてもいいものか。世間体もあるし…。考えあぐねて結論を出さないまま先送りにしていた。まだ一、二年先だと思っていたのだ。加藤先生から、もう長くないと聞かされたとき、そのことが頭によぎり、きちんと考えておかなかったことを悔やんだけれども、顔を見て息を窺っているうち、気持ちが固まってきた。

 母は認知症が進んでからこちらに来たので、ここでの付き合いはほとんどない。母の弟も、昨年先に亡くなっている。お知らせしても遠くから駆けつけてくれるような友人は残っていない。母を知らない人が集まるのも嫌だ。葬式はせず、ご近所の皆さんと母がお世話になった方々だけを呼んで、お別れ会をすることに決めた。
 薪が尽きるように命の熾きが消えていくのは、きっちりと最期まで見届けた、という思いがあった。重ねてどんな儀式も必要ない。

 昨晩の看取りは、生と死の間に断絶がないことを実感させてくれた。思い返せば、母がまだそこそこ元気なうちから、最期の息が止まるまで、脳の高次機能から始まり、進化の道を逆に辿るように、ひとつひとつ段階を踏んで順番に壊れていった。寝たきりになってからは、消化吸収や呼吸やそれらを司る脳の機能などが、重たい底なし沼にゆっくりと沈むように、順繰りに互いを道連れにしながら低下していった。なにもかもが穏やかに進行したので、昨晩並んで布団を敷いたのだけれど、死んだような気がしなかった。といって、生きているように感じたわけでもない。息が止まっても、それまでとそれほど違うようには感じなかった。今日、葬儀屋さんが来て、白い布をかけられ、ぴっちりと包むように周囲を折りこまれて棒のような姿になるのを見ていると、またひとつ私の中で母の死が段階を進めた。棺桶に納まり花に埋められ、焼き場に行って、煙と灰と骨になれば、さらに解消は進み、やがて私の記憶の中に浮上してくる頻度もだんだんと遠ざかっていくのだろう。生と死が断絶し対立するものではなく、つながっていることを、母は身をもって教えてくれた。

 遠くに出かけていなかったこと、妻が判断よく呼びもどしてくれたことを感謝しよう。じっくりと送らせてくださった加藤先生にも感謝しなければならない。昨年までお世話になった麦の家、デイサービスなどでお世話になった社協の皆さんにもお礼を申し上げる。そして何より、他のいろいろな用事もこなしながら、食事や下のこと、身体を拭いたり、毎日努めてくれたことに対して、妻に感謝する。

 人は誰も死ぬ。死とは、新たな反応が起こらなくなることだ。私もいずれそうなる。それはそれだけのことであり、そう悪いことではないという感じがする。

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