曽我逸郎

《布施について 『正法眼蔵 菩提薩タ(土偏に垂)四摂法を読む』からのヒント》


2008年5月27日

 中川村には、正法眼蔵や夏目漱石、宮沢賢治の研究を続けておられる湯澤正範という方がおられる。(http://www.cek.ne.jp/~myuzawa/)
 正法眼蔵や作文・文章読解に関する本を何冊も出してこられたが、この度、また新たに『正法眼蔵 菩提薩タ(土偏に垂)四摂法を読む』(文芸社)を出版され、一冊頂戴した。四摂法(布施・愛語・利行・同時)の第一に挙げられている布施について、大きなヒントを頂いたので、思ったことを整理してみたい。

 その前に少しだけ、私のこだわっている梵我一如について触れておかねばならない。
 私は、「仏教」の歴史は、釈尊ご自身をはじめとするごく一部は別にして、ほとんどが梵我一如思想に毒されている、と思っている。
 この本でも、「眼睛」という言葉が道元の思想を解明するキイワードとされているが、その概念は梵我一如的だ。

 自分の命を授けてくれた「目には見えない大きい命」がある。「人類の命ともいえる目に見えない大きな命」は、「人類を平和で幸せなものとし、永遠に栄えるものとしたい」という強い願いをもって、この地上に次々と人間の命を生み出している。この「願い・慈悲・智恵を持った大きな目に見えない命」を道元は「眼睛」という言葉で表す。眼睛は「目の玉」の意味で、「瞿曇(釈迦)眼睛」といえば、「釈迦の心」という意味になる。「目に見えない大きな命」の核心を表す言葉である。「眼睛」のことを人格化して「如来」ということもある。(p22)
 この考えは、梵我一如思想そのものだ。ただし、だからといって、正法眼蔵の解釈として間違っているとは限らない。道元の理解としては正しいのかもしれない。私は、道元をほとんどまったく読んでいないので、何もいえない。「仏教」の歴史のほとんど全体が梵我一如の影響下にあるのなら、道元とてそれから自由でないと考える方が自然かもしれない。

 私には釈尊の教えについて私なりの解釈があり、どうしてもそれをベースにした読み方をしてしまう。だから、この本の趣旨に沿った読みはできていない。それは自覚しながら、それでも、布施について、私にとってはかなり重要なヒントを頂いた。自分勝手な思いつき、誤読なのかもしれないが、まとめておきたい。

 その布施といふは、不貪なり。不貪といふは、むさぼらざるなり。むさぼらずといふは、よのなかにいふ、へつらはざるなり。たとひ四洲を統領すれども、正道の教化をほどこすには、かならず不貪なるのみなり。たとへば、すつるたからを、しらぬ人にほどこさんがごとし。(p13)
 布施とは、むさぼらないことだ、と道元は言う。与えることであるより先に、まずむさぼらないこと。これはまぁ、納得できないでもない。しかし、むさぼらないことは、へつらわないことだ、とすぐに言い換える。これはちょっと思いがけない。へつらわないこととは、人の好意をむさぼらないこと、人に良く思われようとしないこと、すなわち、評価を気にしないこと、だと思う。

 「捨てる宝」とは何か? 著者は「自分の命」だと言う。そして、先に引用した眼睛によって解説している。
 しかし、私は、宝とは、命というより人生として捉えたい。「命」では短絡的な誤解を生みかねない。一瞬で捨てられる命ではなく、人生を延々と捨てつづけるのだ。そういう言い方の方が、意味の重みがよく伝わる。

 一時の決断で命を捨てることは、それほど難しいことではない。お国のために、天皇陛下のために、人民のために、自由のために、神のために、ジハードのために、少なからざる人が命を投げ出してきた。様々な事情やなりゆきによって、自分の気持ちを殺して、命を捨てざるを得ない状況に追い込まれた人もいるだろう。また、義憤や愛国心や宗教心といった止むに止まれぬ思いから自らを犠牲にする人もいるだろう。純粋な犠牲的精神からそうする場合も確かにあるだろう。しかし、よくよく分析してみれば、命を捨てることによって逆に、自分の生に意味や価値を与えようとするケースも多いのではないだろうか。ひねくれた言い方をすれば、一種のヒロイズムである。命を差し出すことで意味や価値を得ようとするなら、それは取引だ。取引であれば、差し出すものも何がしかの価値あるものとして捉えていることになる。つまり、その人にとって、その人の命はやはり依然として価値あるものなのだ。そして、それと引き換えに、より高い価値を得ようとしている。
 それにまた、何かのために命を投げ出す行為は、結果として苦を増やす場合のほうが圧倒的に多いように思う。それは、その行為が、本当のところでは執着に根ざすものであるからではないだろうか。

 私は、「捨てる宝」とは、「意味も価値も全然ないと分かった私の生」という意味だと思う。我々は皆、無常にして無我なる縁起の現象だ。格別の意味も価値もない。目的もない。

 こう言うと、すぐに「ならば死なねばならないのか?」と反論する人がいる。しかし、意味・価値・目的がなければ、抹消せねばならないのか? 許されないのか? そういう考えは、その人の思い込みではないだろうか。「自分は意味あるもの、価値あるものである筈だ、存在意義がなければならぬ。」 そういう願望・執着による反発だ。
 無常=無我=縁起が自分のこととして分かる、とは、そういったがんじがらめの思い込みが氷解することだ。自分を唯一無二の宝のように思い込んで必死に執着してきたが、無常=無我=縁起が自分のこととして納得できれば、執着しても不可能であることが分かる。不可能なことに必死になってきた自分の愚かさが分かる。
 これはけっして諦観ではない。願望がまだくすぶっていれば諦観にもなろう。しかし、本当に腑に落ちて自分のこととして無常=無我=縁起が納得されれば、もはや願望はさっぱりとない。意味や価値をむなしく求めあぐねる馬鹿馬鹿しさから目が覚めた痛快にして軽安な状態である。

 成道のとき、釈尊は、足を組んだそのままで自然に死ぬのを待とうと一旦は思われた。しかし、すぐに自分の発見を人々に教えようと考えなおされた。
 「有情は、自分をあたかもすばらしい宝のように思いなし、それを守り育てようとむなしく執着して、あせり、競いあい、貪りあい、かえって苦を作って、自ら苦しみ、互いに苦しめあっている。たまに執着が満たされるとはしゃぎ喜び、それによって更に執着は深くなる。なんと憐れなことか。有情は、自分が『そのつどそのつど(=無常)縁によって起こされている反応であって(=縁起)、実体のない現象であること(無我)』を理解せず、執着のしようもない自分に執着している。私(釈尊)が気づくことのできた無常=無我=縁起を教えて、もしも納得できる人がいれば、その人は私同様、執着の愚かさに目覚め、苦を作ることはなくなり、軽安になるであろう。」
 そう考えて、釈尊は、大いなる慈悲の心を動かされ、説法を開始された。
 自分が発見したことを有情にも気づかせることがどれほど苦労の多いことか、方便を尽くしても成果の乏しい、甲斐の少ない努力であることは、釈尊は十分に分かっておられた。しかし、そんなことはどうでもよかった。なぜなら、釈尊にとって、自分自身は、もはやこだわる必要もない、意味も価値も目的もない現象なのだから。

 これが、「捨てる宝を知らぬ人に施す」ということだ。意味も価値も目的もない自分はどうでもいいのであるから、人からの評価もどうでもいい。へつらうこともない。貪ることもない。その仕事に意義があるとかないとか、自分の本来の仕事であるとかないとか、その仕事によって自分の生が価値を持つとか持たないとか、まったく関係ない。一生を無駄な生涯のまま生きて、その間一貫してただ慈悲が働き続ける。釈尊の生涯は、まさにこうだったと思う。これは、無常=無我=縁起が納得できれば自然な結果であるけれども、未だ執着の炎である凡夫にとっては、何かのために命を捨てることよりはるかに難しく、ほとんど不可能なことだ。

 これは、仕事を選り好みしない、出合った縁をすべて引き受けて、ただ慈悲を向ける、ということでもある。
 道元は、布施を与える(=捨てる)方向ばかりではなく、受け取るものとしても捉えている。

 もしよく布施を学するときは、受身・捨身ともにこれ布施なり、・・・はなを風にまかせ、鳥をときにまかするも、布施の功業なるべし。・・・身力をはげますのみにあらず、便宜をすごさざるべし。まことに、みづからに布施の功徳の本具なるゆえに、いまのみづからは、えたるなり。(p45)
 捨身だけではなく、受身も布施だという。花が咲いて散るのも風にまかせ、鳥が鳴くのも縁のままにまかせて受けいれていくのが布施だという。自分ばかりで努力するだけではなく、環境が変化するタイミングを捉えよ、という。過去の様々な布施の結果が積み重なって、今の自分ができた、ともいう。

 道元の布施の捉え方は、どうやら縁起と密接に係わっているのではないだろうか。縁を選り好みせず、すべて受け入れよ、と言っているように思える。そういえば、冒頭で触れた「むさぼらない」というのも、「好悪を持たない」と同じことかもしれない。考えてみれば、選り好みするのは、自分にとって良い悪い、好き嫌いを言っているのであるから、まだ自分になんらかの価値を置いている証拠だ。自分がすっかり「捨てる宝」になっていれば、選り好みはもうない。四摂法の最後の「同時」の段でも、「いとはざる」ことが、繰り返し説かれている。

 私はこれまで、「悪い縁は人に悪い反応を生じさせ、悪い癖をつける」と考えてきた。確かに凡夫においてはそうだろう。善良な青年も、戦場に送り込まれればむごいことをしてしまい、自らその傷を背負う。しかし、菩提薩タにおいてはそうではない。本来縁に善悪の別はなく、すべての縁を受け入れながら、執着がないのであるから、すべての縁に苦を生まない反応をする。慈悲の反応をする。そして、慈悲が成果を挙げるよう努力をする。単なるがむしゃらの努力ではなく、状況を分析し、作戦を練り、タイミングを読む、冷静沈着で思慮深い努力だ。それを布施と言っている。
 道元は、布施という言葉で、縁起における慈悲の発動のあり方を考えているように思う。

 四摂法の他の三つの内の「愛語」と「利行」は、布施、すなわち縁起における慈悲の発動を、口業と身業の二つに分けて一段具体的に説いたものであろうし、「同時」は、一層深く考察したものだと思う。

 道元がこの書で言う菩提薩タとは、無常=無我=縁起がすっかり納得されており、その上で俗世間の中で慈悲をもって有情に向かっていく人のことだ。けして仏の前段階としての菩薩ではない。ある意味、仏以上のあり方と言えるかもしれないが、仏は必ず慈悲をもって有情に向かう。成道後の釈尊のように。従って、菩提薩タ=仏なのだ。

 (以前、ホームページのどこかに、菩薩と聞いて思い浮かぶイメージはボブ・マーレイとチェ・ゲバラだ、と書いた。それは、大乗的な、自分はまだ凡夫のまま有情を救わんとする、苦を増やしかねない危うさを含んだ菩薩のことである。道元の言う菩提薩タは、それとは異なる。)

 著者は、正法眼蔵のこの巻を「道元自らが菩薩としての自覚を持って…自らの心構えを自省しながら記述したものであるのかもしれない」と書いておられるが(p135)、私も同じように感じる。

 最後に、私自身の自省はというと、人によく思われたいという気持ちはあまりないつもりではあるが、生来の面倒くさがりやで、自分なりに納得のできないことは馬鹿らしく思われ、やる気が失せやすい。凡夫が寄り集まって作っている社会であるのだから、そこでなにかをしようとすれば、丁寧な段取りの積み重ねがなければならない。そのことに嫌気が差すのは、まさに「いとふ」気持ちが濃厚なのだ。「やはらかなる容顔をもて一切にむかふ」レベルには程遠い。無常=無我=縁起を自分のこととしてまだまだ少しも分かっていない。私にとって私は依然として宝だ、ということである。

2008年5月27日 曽我逸郎

2014年8月20日 誤字訂正。京都、寺町通三条上るの仏教書専門店『其中堂』のご主人、三浦了三さんから、「眼睛」とするべきところを「眼晴」に間違えている、とご指摘を頂いた。恥ずかしい限り。訂正しました。

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