曽我逸郎

《ブッダダーサ比丘 仏教の教えの本質的ポイント》


2003年12月27日

 ブッダダーサ比丘 (Buddhadasa Bhikkhu、プッタタート比丘とする表記もある)の「仏教の教えの本質的ポイント」 "Essential points of Buddhist teachings" を訳した。さほど長くはないので、今回は全訳である。前回同様、元の英文と参照してもらう便を考え、日本語の自然さは犠牲にして、できるかぎり忠実な訳を心がけた。重要と感じた部分には英語を添える。誤訳などあれば、是非御指摘下さい。

・ブッダダーサ比丘については、小論集の「タイ上座部の「異端」 ブッダダーサ比丘 "Handbook for Mankind"を読んで」 冒頭を参照。
・ブッダダーサ比丘公式サイトとも言うべき Suan Mokkh: The Garden of Liberation はリンクのページに掲出。
・元の英文は、www.saigon.com/~anson/ebud/ebdha193.htm が参照しやすい。
・仏教用語については、漢訳の用語を私なりに同定できたものは反映させたが、誤りや漏れがかなりあると思う。是非御指摘下さい。パーリ-日本語辞書がないので、乏しい記憶に頼る他ない有り様です。
・< >で囲んだのは、曽我による補い、注釈等。

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 特別なお話をするこの機会に、Dhamma<法>(究極の真理、自然の真理、生きるものすべてのつとめ、釈尊の教え Ultimate Truth; the truth of nature; the duty of all that lives; the teachings of the Buddha) の原理を最も適切に要約するいくつかのテーマを取り上げようと思います。<ブッダダーサの言う法は、「真理・教え」の意味で、「存在」の意味では使っていないようだ。>仏教の教えの本質的なポイントについてお話します。理解していただければ皆さんの学習の広範囲な進展に大いに役立つと期待します。もしこれらのポイントを把握しなければ、混乱してしまうでしょう。非常に多くの知らねばならないことがあり、どんどん増えつづけて、もはや理解することも修行することもできないほどに増えている、そのように感じることになるでしょう。これは過ちの根本原因です。なぜなら、意気消沈させ、関心をどんどん散漫に不適切にするからです。そして、最後には、せっかくの知識を活用する学習や修行もできず、ただたくさんの重たい知識を背負って歩くかのような結果に終ります。

 皆さん、どうか心を切り替えて頂き、仏教の教えの本質的なポイントを把握し、法の正しい理解の土台である知識を認識してください。この知識は土台であると強調します。というのは、少しずつそれてしまってもはや仏教の教えではなくなった理解、間違った理解があるように、土台ではない知識があるからです。あるいは、まだ仏教の教えであるにしても、本幹からいつも枝分かれしていく枝葉があります。

 なにかを仏教の教えの土台であると正しく呼ぶためには、まず第一に、それが Dukkha <苦>(苦しむ事、"私"とか"私のもの"であることに執着したひとつひとつの経験または状態の不満足あるいは不完全さ the suffering, unsatisfactoriness or imperfection of every experience or state clung to as being "I" or "mine" )の滅尽を目指す原理であること、また二つ目に、他を信ずる必要なく自分だけで知る事のできる論理を備えていることが必要です。これらふたつが、土台の最も重要な要素なのです。

 釈尊は、苦の滅尽につながらないことにかかわり合うことを拒絶されました。転生 rebirth があるかないかという問を取り上げましょう。何が転生するのか? どのように転生するのか? 相続する業はなにか?( 業とは身、口、意による意識的行為です。kamma-is volitional action by means of body, speech or mind )このような問は、苦の滅尽を目指していません。そうであるなら、これらは仏教の教えではないし、仏教に関わりはありません。仏教の世界にはないのです。それにまた、このような事柄を尋ねる人は、与えられた答えを見境なく信じるしかありません。何故なら、答える人はいかなる証明もできず、ただ記憶と感覚を頼りにしゃべっているからです。聞き手は自分自身で確かめることはできないし、相手の言葉を盲目的に信じなければなりません。徐々に問題は法から迷い出て、苦の滅尽とは関係のない何かすっかり別のものになってしまいます。

 さて、このような問題を引き起こさないなら、このように問うことができます。「苦はあるのか?」また「どうすれば苦を滅尽できるのか?」このような質問には釈尊は答えて下さるし、聞き手は、盲目的に信じることなく、釈尊の答えのひとつひとつの言葉の真実を知ることができ、どんどん明白に知って理解することができます。そして、もし誰か苦を滅尽できるところまで理解する事ができれば、それは究極の理解です。まさにこの瞬間に、生きている人はいない there is no person living と知ります。自己や自己に属するなにものもない there is no self or anything belonging to a self と疑念なく分かります。感覚経験の欺く性質にだまされる愚かさによって引き起こされる「私」とか「私のもの」という感覚 a feeling of "I" and "mine" があるにすぎないのです。ですから、生まれる者はおらず、死ぬ者も転生する者もおりません。よって転生の問の全体はまったく馬鹿げており、仏教とはなんの関係もないのです。

 仏教の教えは、私達に、自己も自己に属するものもない there is no self and nothing belonging to a self、無知な心の間違った解釈があるだけだと知らしめようとしています。単に身体と心があるだけであり、それらは自然な過程 natural processes 以外のなにものでもありません。データを処理し変換できる機械のように機能するのです。もし誤ったやり方で機能すれば、愚かさと妄想を引き起こし、自己や自己に属するものがあると感じることになります。正しいやり方で機能すれば、そのような感覚は起こらず、真実を識別する根本的慧 the primal truth-discerning awareness(satipanna)<satiは念。pannaは般若。>と根本の本当の知、自己も自己に属する者もないという明白な理解があります。

 「私」や「私のもの」という問題は、仏教の教えの唯一の本質的なポイントです。この問題は、完璧に誤りのないように<理解>されねばならないことです。それがあってこそ、仏教の教えの知も理解も修行も、例外なくその後に続くのです。ですから、最大限の注意を払ってください。

 法の基礎的根本的原理については、たいしたことはありません。釈尊は、片方の掌一杯ほどだとおっしゃいました。サンユッタ・ニカーヤの経文に明らかです。森を歩いている時、釈尊は掌に落ち葉を掬われて、そこにいた弟子達に尋ねられました。どちらが多いか、この掌の中の葉か、それとも森のすべての葉か、と。弟子たちは、森の中の葉の方がずっと多い、比べられないほどたくさんです、と言いました。<皆さんも>今、その情景を想像して、この真実を見てください、どれほど多いか、そして釈尊は仰いました、同じように釈尊の認識されたこと、御存知のことは大変な量である、森のすべての葉のように−しかし、知らねばならないこと、教えられ修行せねばならないことは、掌の中の葉の数に等しい、と。

 ですから、このことから、世界において見出される無数のことに比べれば、完全に苦を滅するために修行せねばならない根本原理は、掌一杯ほどの量でしかないということが分かります。この「掌一杯」がたいした量ではなく我々の手の届き理解できる能力を超えたものでないことを感謝せねばなりません。このことは、仏教の教えを正しく理解する土台を築きたいと願うなら、把握せねばならない第一の重要なポイントです。

 ここで「仏教の教え」という言葉に行きつきました。この言葉は正しく理解してください。今日、「仏教の教え」としてラベルを張られているものは、ひどく漠然としたものです。ほとんど定義もなく広範囲にわたっていると言えましょう。釈尊の時代には、別の言葉、「法」 "dhamma" の語が使われていました。それは、苦を滅尽する法だけを限定的に言い表していました。釈尊の法は、沙門ゴータマの法と呼ばれました。別の宗派の法であれば、例えばニガンタ・ナータプッタ(釈尊と同時代でジャイナ教の祖)のそれなら、ニガンタ・ナータプッタの法と呼ばれていたでしょう。特定の法が気に入った人は、それを理解するまで学習した上でしかるべく修行しました。それが法と呼ばれ、後の時代に関連付けられるようになった多くのことの一切ない真の純粋な法であったものなのです。<それなのに>今では、私達は、こういった付加物を「仏教の教え」と呼んでいるのです。私達の不注意さのために、「仏教の教え」は漠然としてしまい、その中にたくさんの外部のものを含んでしまっているのです。

 真の仏教の教えは、それだけでも既に膨大です−森のすべての葉のように−しかし、学ばれ修行されねばならないものは、掌一杯にすぎません、そしてそれは(実はそれだけで)既にかなりの量なのです。しかし、今日では、宗教史や拡張された心理学といった、教えに関連したことまでも含めてしまっています。アビダルマ(仏典の三つの「籠」 "baskets" の三番目 <三蔵のうちの論蔵のこと>。釈尊の死後編纂され、心とものの、その構成要素への完全な分析である。)を取り上げると、ある部分は心理学であり、ある部分は哲学であり、そういった学問分野の要求を満たすために、一貫して拡大しています。そして、そこには多くの枝葉があり、教えに関連する事柄は非常に膨大です。これらがすべてひとつの言葉の元に掃き寄せられて、その結果、大変な数の「仏教の教え」があるようになりました。

 もし本質的なポイントをつかむ術を知らなければ、非常にたくさんの事があるように思われ、<本質的なポイントを>選び出すことはできないでしょう。いろいろな種類の商品を売っている店に入って、どれを買うのかまったく分からないようなものです。それで、私達は常識に従う事になります−これを少し、あれを少し、適切だと思って。そして、大抵の場合私達は、真実を識別する慧 truth-discerning awareness に従うのではなく、煩悩 defilements (kilesa) <defilement の辞書的意味は「穢れ」であるが、kilesa の漢訳である「煩悩」をとった。>に適うものをとるのです。<その結果>精神的生活は、儀礼や習慣的な御利益作りの事柄、あるいは、それやあれやの災難を防ぐ事柄になっていきます。真の仏教の教えとは、なんの接点もありません。

 仏教の教えを、単にそれに関連づけられて同じ名前の元に含まれるようになったものから分ける術を知りましょう。教え自体の内でさえも、根本原理、本質のポイントを見分ける術を知らねばなりませんし、それが、お話しようしていることなのです。

 私達の時代の精神の病は、いつも心にある「我々」とか「我々のもの」、「私」とか「私のもの」という感覚に病原菌を宿す病です。すでに心にある病原菌は、まず「私」とか「私のもの」という感覚となり、自己中心性の影響をとおして作用し、貪・瞋・癡 greed, hate and delusion <貪欲、憎悪、惑い>となり、自分自身と他の人達の両方を悪くします。これらが、私達の罹っている精神の病の症状です。憶えやすいように、「私」とか「私のもの」の病 the disease of "I" and "mine" と呼んでもかまいません。

 私達の誰もが、「私」とか「私のもの」の病を持っており、無知な人のやり方で、形を見、香りを嗅ぎ、触れられるものに触れ、風味を味わい、思ったりする度に、もっとたくさんの病原菌を取り込んでいるのです。言いかえれば、感覚が<なにかに>接する度に、病原菌が接受され、私達の周囲のものは菌に汚染されて病気を引き起こすのです。

 病原菌とは、取 clinging (Upadana<clingingは、「まといつくこと」で、意味としては「執着」が適当かと思う。一方 Upadana は十二支縁起の9番目で、漢訳は「取」。> のことであり、それには2種類があることを認識しなければなりません。「私」への執着と「私のもの」への執着です。「私」への執着や「私」は実在である、私はこうでありああである、私は誰とも同格だ、というような感覚。こういった種類のことはどれも「私」と言われます。「私のもの」とは、私に属するものとして、私の愛するもの、私の好きなものを取ることです。私達の憎むものでさえも、私達は「私の」敵であると考えます。これが「私のもの」と呼ばれるものです。

 パーリ語では、「私」は atta で、私のものは attaniya です。あるいは、インド哲学の一般的に使われる用語を使えば、「私」という感覚を持っていることを意味する ahamkara(aham「私」という語に由来)、と「私のもの」という感覚を持っていることを意味する mamamakara(「私のもの」を意味する mam という語に由来)です。
 ahaMkAra は我執。mamakAra は我所執。小川一乗「大乗仏教の根本思想」P81より。ブッダダーサの mamamakara は、ma がひとつ多いが、ミスタイプか? 2004,2,17,加筆。

 ahamkara と mamamakara の感覚は大変危険なので、精神の病と呼ばれ、釈尊の時代の哲学や法のどの派も拭い去ろうとしました。(仏教ではない)他の教えの追随者であっても、皆 ahamkara と mamamakara を拭い去ろうという同じ目的を持っていました。違いは、彼らは、そういった感覚を根絶した時、残るものを真の我 the True Self、純粋なアートマン the Pure Atman、望まれしもの the Desired と呼んだことです。私達の仏教の教えについて言えば、自己や自己に属するものへのいかなる新たな執着 clinging も引き起こしたくないので、そのような名前を使うことは拒否します。完全なる空性 a perfect emptiness が残るだけで、それは涅槃 Nibbana と呼ばれます。Nibbanam paramam sunnam - 涅槃は至高の空性である - すなわち、あらゆる面での、残るものなき、「私」の絶対的空、「私のもの」の絶対的空、という経文にあるように。それが涅槃であり、精神の病の終りなのです。
 < 空は empty であり、空性は emptiness である。今の日本の「空」という言葉の使われ方は、「新たな執着を引き起こす望まれしもの」になっているから警戒せねばならない。>

 「私」とか「私のもの」というこの問題は、大変分かりにくいものです。本当に集中するのでなければ、それが苦の陰に潜む力であり、精神の病の裏に宿る力だとは理解できないでしょう。

 "atta" とか「我」とか呼ばれるものは、ラテン語の "ego" に当たります。自己意識の感覚が起こると、それをエゴイズム egoism と呼びます。というのは、一度「私」という感覚が起これば、それは自然かつ必然的に「私のもの」という感覚を引き起こすからです。だから、自己の感覚と自己に属するものの感覚が一緒になって自己心です。エゴは、生き物にとって自然であり、それ以上に彼らの中心であると言えます。"エゴ"という語を英語に訳せば、魂、ギリシャ語の "kentricon" にあたる語となり、それは英語なら中心を意味します。エゴと kentricon は同じもので、魂 (atta) は、生き物の不可欠の核としてその中心とみなされ、従って、魂は凡夫 the ordinary person が取り除いたり、押し止めたりすることのできないなにかになっています。

 ですから、覚っていない unenlightened 人は皆、引き続いて起こるエゴイズムの感覚を経験する他はないということになります。確かに、それはあらゆる時に現れるわけではありませんが、人が色を見、声を聞き、香を嗅ぎ、触感のあるものに触れ、あるいは心に思いが起こる時、いつも現れます。「私」とか「私のもの」という感覚が起こる場合はいつでも、病は、色を見ること、声を聞くこと、香を嗅ぐこと、あるいは何によるにもせよ、すっかり進行してしまったと考える事ができます。接触の瞬間に、「私」とか「私のもの」という感覚は起こり、それは既にもうすっかり進行した病なのです。利己心の感覚は、強く起こってしまっています。

 ここまで来ると、もはやエゴイズムではなく利己心と呼びます。なぜなら、それは、人を下劣で間違った道へ、他者を顧みず自分のことだけを考える状態へと導く、煽り立てられたエゴイズムであり、その結果その人の為す事はなにもかもが利己的になります。人は、貪・瞋・癡に完全に支配されます。病は利己心として現れ、そしてその人自身と他の人達の両方を傷つけます。これは世界に対する大きな危険です。世界が今こんなに災厄に充ち、混乱の中にあるのは、一人一人の人間や競いあう集団をつくる党派の利己心以外のなにものによるのでもありません。戦おうとする気はないのに無理に相戦わされるのは、人々がこれ<利己心>をコントロールできないからです。人々は利己心の強制力に逆らうことができず、その結果、病は根を張ります。病を引き起こしたこの病原菌に世界が支配されたのは、この病に対抗できるもの、すなわち仏教の教えの核心を誰も知らなかったからです。

 "仏教の教えの核心" "the heart of the Buddhist Teachings" という言葉を知って頂きたいと思います。仏教の教えの核心は何かと尋ねる度に、非常にたくさんの主張し合う応答があり、それは口の海のよう−誰もが答えを持っているのです! しかし、それらが正しいかどうかは別の問題です、というのは、人々はただ憶えていることか自分で<勝手に>考え出したことに沿って答えているからです。どうか、御自身で今日いかなる状況かご覧になってください。誰が本当に仏教の教えの核心を知っているのでしょうか? 誰が真にそれに到達しているのでしょうか?

 何が仏教の教えの核心ですかと尋ねると、おそらくどなたかは四聖諦 the Four Noble Truths (苦、その原因、その滅尽、苦の滅尽へ導く道)( Dukkha, its cause, its extinction, and the path leading to its extinction )<苦集滅道のこと>と言い、別の人は aniccam-dukkham-anatta(無常、苦、無我) (impermanence, unsatisfactoriness and selflessness) を言い、また別な人は、この詩句を唱えるかもしれません。

"Sabba papassa akaranam
Kusalassupasampada
Sacitta pariyodapanam
Etam Buddhasasanam".
「悪を為す事をやめ
良い事のみをなし
心を純粋にする
それが仏教の教えの核心である」
<諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教 (七仏通戎偈)>

 正解です。ですが、ほんのわずかだけそうであるに過ぎません。なぜなら、まだ自動的に復唱されたものにすぎないからです。自分自身で本当に理解したものではありません。

 何が仏教の教えの核心かということに関しては、私は「なんであれなにものも執着されるべきでない」 "Nothing whatsoever should be clung to". という短い言葉を提案したいと思います。マッジマ ニカーヤ<パーリ中部経典>に、ある人が釈尊の元に来て、教えを一言で言えるか、もしできるならそれは何か、と尋ねたという段があります。釈尊はできると応じられました。"Sabba dhamma nalam abhinivesaya". "Sabbe dhamm" は「すべてのもの」を、"nalam" は「べきでない」を、"abhinivesaya" は「執着される」を意味します。なんであれなにものも執着されるべきでない。そして、釈尊は、この核の言葉を聞いた者は誰であれすべての教えを聞いた、それを修行に移す者は、すべての教えを修行した、誰であれこの点を修行して果を得た者は、仏教の教えのすべての果を得たのである、と仰ってこのことを強調されました。

 ひとつとして執着されるべきものはないというこの点の真実を認識するなら、貪・瞋・癡の病や身口意のどれであれ間違った業の病を引き起こす「病原菌」はないということを意味します。よって、色声香味触法 forms, sounds, odors, flavors, tangible objects and mental phenomena の何が押し寄せても、「なんであれなにものも執着されるべきでない」という抗体が病に対抗します。「病原菌」は侵入せず、侵入できたとしても完全に撲滅されるためでしかありません。休むことなく菌を破壊する抗体の為に、「病原菌」は、広がることも病気を起こすこともできません。完全で永遠の免疫があるのです。さあ、これが仏教の教えの、あらゆる法の核心です。なんであれなにものも執着されるべきでない−'Sabba dhamma nalam abhinivesaya.'

 この真実を認識する人は、ちょうど病気に対抗し撲滅できる抗体を持っている人のようです。その人は、精神の病を患うことは不可能です。しかし、仏教の教えの核心を知らない凡夫にとっては、まったく逆で、わずかな免疫もない人のごとくです。

 今や、あなた方は、「精神の病」の意味を理解し、それを直す医師は誰か理解したことでしょう。しかし、私達が自分達を治癒することに本当に真剣になり、正しいやり方でそうするのは、私達自身がその病を持っていることを認識した時だけなのです。それを知るまでは、私達は欲しいままに楽しみます。癌や結核のような深刻な病気を患っていることを知らず、手遅れになるまで治療を求める労をとらずに楽しみを追い求めることに耽り、そしてその病で死んでいく人のようなものです。

 私達は、そんなに愚かではありません。釈尊の教えに従うのです、「無思慮であってはならない。注意深くあれ。」注意深い人間であれば、精神の病によって自分たちがどのように苦しんでいるのか観察し、その原因である病原菌を詳しく調べる筈です。もし、あなたがたがこれを正しく徹底的に行なうならば、人が受け取れる最良のものを必ずや今生において得るでしょう。

 執着することが「病原菌」であることを、それが広がり病気へと進展する様と同様に、もっと詳しく見なければなりません。少し見るだけでも、すべての煩悩 defilements(穢れ) の最たるものは「私」とか「私のもの」へのこの執着であると分かるでしょう。

 煩悩は lobha、dosa、moha(又は raga、kodha、moha)<貪・瞋・癡のこと>に、あるいは16のグループか、望むならもっとたくさんのカテゴリーに分類する事ができます、−でも、結局は、みんな貪、瞋、癡です。しかし、これらみっつもひとつ−「私」とか「私のもの」の感覚−にまとめることができます。「私」とか「私のもの」の感覚は、貪・瞋・癡を生み出す内なる核です。それが貪として、欲望や渇望として現れる時は、接触した感覚対象を引き寄せます。もし別の時に対象をはねつけるなら、憎悪か瞋です。ぼうっとして何が欲しいのか分からず、引寄せるのかはねのけるのか分からず対象の回りをうろついている場合は、癡です。

 煩悩は、これらみっつのどれかの仕方で感覚対象、すなわち、色声香味触法に、対象がどういう形態かに応じて−捕捉しやすいか隠れているか、誘引か拒絶か混乱かどれを起こすかに応じて、作用します。これらは異なってはいますが、みっつとも「私」とか「私のもの」という内側の感覚に根ざしているので、煩悩です。従って、「私」とか「私のもの」の感覚は、煩悩の最たるものであり、すべての苦、すべての病の根本原因であるということができます。

 苦に関する釈尊の教えを正しく評価せず、私達は、それを間違って理解してきました。生や老などはそれ自身苦であると釈尊の教えは言っていると受け取ってきました。しかし、実際は、それらは特徴のある媒介物にすぎません。釈尊は教えを "Sankhittena panucupadanakkhandadukkha" と要約されました。訳せば「つまり、苦とは "khandas" (存在の五つの「グループ」もしくは「集まり」。色受想行識) (the five 'groups' or 'aggregates' of existence: form, feeling, perception, mental formations, and consciousness) への五つの執着である」となります。これは、なんであれ「私」とか「私のもの」として執着し執着されるものは苦である、という意味です。「私」とか「私のもの」に執着のないものは、どれも苦ではありません。ですから、生老病死であれなんであれ、「私」とか「私のもの」として執着されないなら、苦ではあり得ません。「私」とか「私のもの」として執着された時にだけ苦なのです。身体も心も同じです。苦は身体や心に本来的なものではありません。それらが苦であるのは、「私」とか「私のもの」への執着がある時だけです。清く<煩悩の>穢れのない心、アラハン(すべての貪瞋癡から解放された人)の心においては、苦はまったくありません。

 この「私」とか「私のもの」が、あらゆる形の苦の根本原因であることを理解せねばなりません。執着がある時はいつも、無明 ignorance の闇があります。心が空 empty でないから、明晰さはありません。心は、「私」とか「私のもの」の感覚で揺り動かされ泡を吹いています。まったく対照的に、「私」とか「私のもの」への執着を離れた心は、晴朗で、真理を識別する慧 truth-discerning awareness に満ちています。

 ですから、二種類の感覚があることをしっかりと掴まねばなりません。つまり「私」とか「私のもの」の感覚、そして真理を識別する慧の感覚であり、両者はまったく相反するのです。もし片方が心に入れば、他方は飛び出します。一時には片方しか存在できません。もし心が「私」とか「私のもの」で溢れていたら、真理を識別する慧は入ることが出来ません。もし真理を識別する慧があれば、「私」とか「私のもの」は消え去ります。「私」とか「私のもの」からの自由が、真理を識別する慧なのです。

 知的に、つまり端的に言うなら、驚かせますが、黄檗 Huang Po に則って、禅宗に則って、空性は法なり、空性は仏なり、空性は根本の心 the Primal Mind なりと言われます。混乱(つまり)空性のないことは、仏ではなく、法ではなく、根本の心ではありません。これらの立ち起こるふたつの相反する感覚があります。それらを理解すれば、すべての法をたやすく理解するようになるでしょう。

 今この時、ここに坐って聞いているあなた方は空なのです。あなた方は、「私」とか「私のもの」の感覚を confect(?) していません。あなた方は聞いており、真理を識別する慧を持っています。「私」とか「私のもの」の感覚は入ることができません。しかし、別の時に何かがぶつかって「私」とか「私のもの」の感覚を起こせば、あなた方がここで感じている空性や真理を識別する慧は消え去ることでしょう。

 もしエゴイズムについて空であれば、「私」とか「私のもの」という意識はありません。苦を滅することができ精神の病の治療である真理を識別する慧があります。この時、病は<新たに>生まれず、既にあった病は、摘み取られ投げ捨てられたかのように消え去ります。この時、心はすっかり法に満たされます。このことは、空性は仏なりという言葉に一致します。というのは、「私」とか「私のもの」について空である時、三蔵すべてのあらゆる望ましい徳がそこにあるからです。

 簡単にすれば、そこには、完全な satisampajanna (念と自己認識 mindfulness and self-awareness )、完全な hiri (慚 sense of shame )、完全な ottappa (愧 fear of evil )、完全な khanti (忍辱 patience and endurance )そして完全な soracca (穏やかさ gentleness )があります。完全な katannukatavedi (感謝 gratitude )と涅槃の達成のための因である yathabhutananadassa (真実に沿った知識とビジョン) (the knowledge and vision according to reality) に達する完全な誠実があります。
 <様々な徳が列記されていますが、多くは漢訳の語が同定できません。すみません。>

 satisampajanna、hiri、ottappa、khanti、soracca そして katannukata vedi がなければならないと言ったことで、私は基本に辿りつきました。なぜなら、これらもまた法であり、世界にとっての避難所であり得るからです。hiri と ottappa だけでも、<すなわち>悪を為す事に対する嫌悪と羞恥心、そして悪を為す事への恐れ、これらがあるだけで、世界は平穏であり平和が続くことでしょう。

 「私」とか「私のもの」の病を拭い去る多くの方法のそれぞれが、有効です。<どれを選ぶかは>あなた方がどのように修行したいかによります。たくさんある方法のひとつは、「私」と「私のもの」を maya 、<つまり>幻影・幻覚としてじっと見つづけることです。それによって、自己の感覚、<つまり>「私」とか「私のもの」として慣れ親しんでいる外見上は確固たる実体は、本当は幻に過ぎないことが分かります。これは、 Paticcasamuppada (依存的発生のプロセス) (the process of dependent origination)<縁起>の視点から自己をよく見つづけることによって達成されます。

 Paticcasamuppada を理論的専門的に説明するには時間が必要です。これだけで一、二ヶ月かかるでしょう。なぜなら、理論の分野では心理学や哲学の問題として繰り返し解説されつづけており、非常に煩雑なものになっているからです。しかし、修行の分野では、Paticcasamuppada は、釈尊の仰ったとおり、掌一杯にすぎません。色、声、香、味あるいは何であれ、感覚の門のどれかで接触があると、その接触はパーリ語で phassa <触>と呼ばれます。この phassa は、vedana (受) (feeling) になります。Vedana は、tanha (愛) (craving) となります。Tanha は、upadana (取) (clinging) になります。Upadana は、bhava (有) (becoming) になります。Bhava は、jati となりますが、それは「生」 "birth" であり、生に続いて、老、病、死の苦しみがあり、それらは Dukkha <苦>です。
 <輪廻否定論者としてはあまり言いたくはないが、十二支縁起の「生」は「生きる」ではなく「生まれる」である。生老病死(四苦)の「生」も同じ。>

 感覚対象との接触があるとすぐに phassa があることを理解してください。そして phassa の、vedana、tanha その他への引き続いて起こる展開が、Paticcasamuppada、すなわち様々なものが別のものに依存して存在しつつ、また別のものの発生の条件となり、そのものがさらに別のものの展開の条件となり、それが続いていくというプロセス、と呼ばれます。このプロセス、あるいはありさまが、Paticcasamuppada と呼ばれます。見出されるべき自己も「私」もない依存的発生であり、発生が継起する依存状態にすぎません。

 ( phassa、接触、感覚経験。内の感覚媒体<根>+外の感覚媒体<境>+感覚意識<識>の出会いと協働。例えば、眼根+色境+眼識。六つの感覚に対応して、六種類の phassa がある。)

 ( vedana、感覚、知覚。心の反応、もしくは感覚経験( phassa )の色づけ。三種類の vedana がある。すなわち喜ばしい、よい、受け入れられる感覚と、楽しくない、受け入れ難い、苦痛の感覚、そして、つらくもうれしくもない中間の感覚。Vedana は「感情」 'emotion" ではない。もし vedana が無知あるいは真理を識別する慧の欠如から起こると、その瞬間に次に愛 craving を引き起こす条件となる。

 これ<十二支縁起>を利用する方法は、依存的発生が起こることを許さないことです。触 sense-contact のまさにその瞬間に切り離し、vedana の展開を許さず、満足や不満足の感覚が起こるのを許さないのです。vedana が作り出されなければ、「私」や「私のもの」である愛や取は生まれません。愛や取が生まれるところに「私」とか「私のもの」はあります。幻はまさにそこにあるのです。phassa の他はなにもない触の瞬間に、まさにそこでストップさせれば、「私」とか「私のもの」には、真理を識別する慧の内に発生する術がないのです。

 別の方法。凡夫にとっては、phassa が vedana になるのを妨げることは非常に困難です。触があるとすぐに、満足や不満足の感覚がいつも直ちに続きます。法における訓練がまったくなかったのですから、phassa では止まらないのです。しかし、vedana が既に作られてしまっても、満足や不満足の感覚がもう起こっても、そこで止めてください。感覚を単なる感覚に留め、過ぎ去らせなさい。< vedana が>さらにすすんで、満足や不満足に応じてこれやあれを欲しがる tanha になる反応を許してはなりません。なぜなら、満足があれば、そこには欲望、切望、我侭、強欲、妬みなどが結果として生まれるからです。もし不満足があれば、死ぬまで殴ろう、荒らしてやろう、殺してやろうという欲望があります。もしこのような欲望が心にあるなら、vedana は既に tanha になってしまったということです。もしそうなら、あなたは Dukkha <苦>という精神の病を患っているに違いなく、誰も助けることは出来ません。すべての神々が寄り集っても無理です。釈尊は、釈尊でさえ助けられない、と仰いました。釈尊とて自然の法則を変える力を持っておられる訳ではなく、それを見出された方に過ぎないのですが、<そのお陰で>他の人達は、法則に従って修行する事ができるのです。間違って修行すれば、Dukkha を持つに違いありません。正しく修行すれば、Dukkha はありません。このように、もし vedana が tanha になってしまったら、誰にも助けることはできない、と言われます。どのような形にせよ愛<tanha>が起こるや否や、誰も助けられず、そこには例外なく Dukkha があるのです。

 心に湧き起こる荒々しい欲求において 「私」という欲望の感覚、これを欲しあれを欲しこうしたいああしたいと思う自己の感覚を見分ける方法を理解してください。こうやああや行為してきたり、それらの行ないの結果を受けてきたのは誰なのか、見分ける術を知ってください。欲望する者が「私」なのです。それは、ものを欲し、「私のもの」として様々なやり方で掴み取ります−「私の」地位、私の財産、「私の」勝利、「私の」アイデア・意見。これらの感覚のすべてに、「私」があります。

 「私」とか「私のもの」という感覚は、upadana と呼ばれ、tanha から起こります。tanha が upadana になるのです。もし Paticcasamuppada が tanha と upadana にまで進展したら、耳や眼や舌や身から入りこんだ病原菌は、病の症状として現れるほどの広がりまで育っているのです。なぜなら upadana の後には bhava が続くからです。Bhava は、「持つこととあること」 "having and being" を意味します。何を持ち、何であること? 「私」とか「私のもの」を持ち、「私」とか「私のもの」であること。Kammabhava < kamma は業のこと>は、「私」とか「私のもの」の発生の条件となる行為です。もしそれが単に "bhava" であれば、「私」とか「私のもの」の条件はすっかり吹き払われており、病は吹き飛ばされていることになります。

 私達の修行では、phassa が vedana になるのを妨げるまさにそのポイントで<進展を>止めなければなりません。あるいは、もしそこで失敗しても、vedana が tanha になるのを防ぐことによって<止めるのです>。それより後では希望はありません。眼と色、耳と声、舌と味等の出会うまさにそのところで、なにものも執着されるべきでないというポイントで持続的に修行する事によって、法を持つように努めるのです。凡夫においては、phassa が起きると、vedana が起こり、tanha、upadana、bhava、jati が続きます。これは、よくよく踏み均されて、ついていくのが非常に容易な道です。しかし、私達は、その道を取りません。触があるや否や、踵を返して、真理を識別する慧の作法を取ります。「私」とか「私のもの」の道を取らず、あるいは、vedana まではついていっても、そこで後戻りして真理を識別する慧の道へ進みます。「私」とか「私のもの」の流れに沿って流されたりはしません。このようであれば、いかなる苦もけしてありません。これをうまく為すことができ、正しい方法に正しく完全に従えば、アラハン果を実現できるのです。

 釈尊の言葉によって進みたいと思うなら、釈尊がバヒヤという弟子に教えられたやさしい道があります。

 「おぉ、バヒヤよ、色を見るときはいつも、見ることだけがあるようにしなさい。声を聞く時はいつも、聞くことだけがあるようにしなさい。香を嗅ぐ時は、嗅ぐことだけがあるようにしなさい。味を味わう時は、味わうことだけがあるようにしなさい。身の感覚を経験する時は、感覚であるだけにしなさい。思いが起こるときは、自然な現象(感覚)だけが心に起こるようにしなさい。このようであれば、自己はなく「私」はありません。自己がなければ、あちこちさまようことはなく、どこに留まることもないのです。そして、それが Dukkha <苦>の滅尽です。それが涅槃なのです。」 いつでもこのようであれば、涅槃です。もしそれが続くなら、継続する涅槃です。一時的であれば、一時的な涅槃です。言葉を変えれば、これがたったひとつの道なのです。

BuddhaSasana - A Buddhist Page by Binh Anson より
Essential points of the Buddhist teachings
Ven. Ajahn Buddhadasa
(From: "Heart-Wood From The Bo Tree", Suan Mok, Thailand, 1984
- taken from postings in the dhamma-list@yahoogroups.com , May 2001)
を日本語に訳しました。
曽我逸郎

【 曽我の若干のコメント  2004,1,4,加筆 】

 『「私」とか「私のもの」の病』とは、要するに我執のことだと思う。我執の発生を止めることによって、貪瞋癡は起こらず、苦は滅尽される、ブッダダーサ比丘はそう言っているのだと思う。
 我執の発生を止める実践的な修行の方法が、十二支の縁起説と直結している点は、私には新鮮だった。これまで、十二支縁起に接してきたのは、仏教思想史的なアプローチがほとんどだったからである。しかし、考えて見れば、仏教は苦の滅尽を教える教えであるから、あらゆる教えは苦を滅する具体的修行方法に直結しているのが当然である。単なる分析で終っている筈はない。忘れていたあたりまえのことを再認識した。

 もう一点。我執に対して私が持っていたイメージは、実体的であったと気付いた。頑強な我執が既にがっちりと築き上げられていて、それをどう破壊すべきか、といった考え方がどこかにあった。如来蔵思想をもじって言うならば、我執蔵思想と言うべきか。我執常住論とも言えるかもしれない。ともかく実体論的であった。
 しかし、私がそのつどの反応であるのなら、当然我執もそのつどの反応である筈だ。できあがった巨大な我執と戦うのではなく、そのつどそのつど我執の芽を摘んでいく。言ってみれば、反応のパターンを変えることではあるが、「反応パターンを変えるにはどうすればいいか」と大上段に振りかぶるのではなく、その時その時いつも悪い事を考えず、良い事をし、反応のパターンを清く保っていく。要は、七仏通戎偈だ。まずはそこからだ。それだって大変なことであることに変わりはないが、少し肩の力が抜けた。
 七仏通戎偈を守り、何かを感受する時いつも tanha や upadana が起きないようにする努力は、いつか不要になると思いたい。努力せずとも、それが普通の反応となる。反応パターンにそのような新しい癖がついた時に。そのような反応が、新たな踏み均されし道となった時に。「なんであれなにものも執着されるべきでない」という抗体ができた時に。

 漢訳の語を同定できなかった中で、一番気になっているのは、「真実を識別する慧」と訳した "the truth-discerning awareness" である。頻出するキィワードだから、腑に落ちる訳語が欲しい。添えてあるパーリ語 satipanna を直訳すれば「念般若」あるいは「念慧」だが、仏教学事典(法蔵館)にその見出しはなかった。私の持っている薄っぺらい英語の仏教辞書をみると、"Sati-patthAna" の項に "Awareness of Attentiveness" とあり、意味的にはこれが近いのかもしれない。だとすると、satipaTTAna-sutta(念処経)の「念処」となるが、はたしてどうであろうか?
 漢訳の同定は一旦諦めて、「念般若」という言葉から考えてみよう。「念」は、日本の(大乗の?)注釈では「記憶力」といったニュアンスが強いが、上座部では「なにか対象を注意深く観察すること」を意味するようだ。今回の訳で言えば、「よく見つづけること」と訳した "contemplating" がこれにあたると思う。つまり、「念般若」では、対象の観察と般若がひとつに結びつけられていることになる。
 般若について私の元々の捉え方は、識=分別知に対置される概念であり、分別すなわち対象化のない智、主客対消滅の智というものであった。さらに、日本の(大乗の?)般若(に対して私が抱いているイメージ)を誇張して言うと、個々の現象を超越し、世界の全体的実相(=真如)である空を「新たな執着を引き起こす望まれし実体」として一挙に把捉する言語化不能の体験的智といった感じとなる。
 つまり、どちらの般若にせよ、対象のある(=分別のある)観察とは、相容れないというのが、私の元々の思い込みであり、通常の日本の(大乗の?)立場であると思う。何故なら、般若は、対象化(分別)なしに、世界の全体を一挙に知ることなのだから。
 しかるに、ブッダダーサ比丘は念と般若を結びつけている。これは一体どういうことか? 実は、この点で、私の最近の問題意識と結びつくのだ。(言い換えると、私は、ブッダダーサ比丘の言葉をそのままにではなく、自分の問題意識に引き付けて反応し解釈している訳である。)
 般若とは、「分別=対象化なしに全体を一挙に知ること」ではなく、「定による慧」ということであり、「定によらない知=識」と同様に、対象化の作用はあるのではないか? 無念無想・主客対消滅の三昧は、ブッダダーサ比丘の言う「深すぎて障害となっている定」(小論集 「"Handbook for Mankind"を読んで」参照)ではないかと思う。無分別知は知ではなく、単なる無分別であり、対象化のない般若は、実は「深すぎる定」に過ぎないのではないか?
 こんなことを思い始めたのは、ヴィパッサナーの体験で「対象観察による定」、「対象観察のある定」の可能性を感じたからである。そうであれば、「対象観察のある定による慧」も可能なのではないだろうか?
 かつて、私は、「対象化の働きがあれば、主客が分裂していることであり、働いている本当の自分(ノエシス)はけして対象化できない。ノエシスを知るためには、対象化作用のない智が必要である」と考えていた。しかし、これは、論理のあまりに形式的な問題把握ではなかったのか。要は、自分がとことん無常にして無我なる縁起の現象であるとすとんと腑に落ちて分かることだ。対象化があろうがなかろうが、どちらでもいい。
 合理的世俗的な知=識だけに頼るべきだとする駒沢大批判仏教グループのような極論か、はからいを捨て「主客未分」無念無想の般若か、という二者択一ではなく、その中間に、「観察のある定による般若」という道もあるのではないかと思い始めている。根拠薄弱な思いつきに過ぎないが、そのような第三の道がなければ、前の二つでは自分の無常=無我=縁起は体得できないように感じている。

 ブッダダーサ比丘は、十二支縁起の進展を phassa (触)か vedana (受)の段階で止め、 tanha (愛)を起こすな、と説いている。これの具体的方法のひとつが、ヴィパッサナーの、自分のそのつどの反応をあれこれ評価せず、言語化して確認し(ラベリング)、そこで終わらせる、という指導ではないかと思う。特に、締めくくりに置かれているバヒヤへの教えは、ヴィパッサナーを髣髴とさせる。

 また、vedana (受)まで許されているのは、私にとってほっとさせてくれる点だ。
 私は、空や木や鳥などを眺めることで、ネガティブな状態を克服してきた。「あたりまえ般若」本文の娘の告白が、ほぼ私自身の陥っていた状況に近い。そういう意味で、自然を見ることは私にとって救いの手立てだった。ところが、初期経典には自然の描写が極めて少ない。釈尊が弟子に自然へ目を向けよと教えられた形跡はまったくない。ご自身が自然を楽しまれたという記述もほとんどない。しかも、例えばバヒヤにおっしゃったように、感覚の門を守れという教えを忠実に守れば、流れる雲や夕焼けや木漏れ日を美しいと思うこともいけないのか? この点が、ずっと気になっていた。
 しかし、ブッダダーサは、凡夫むけの次善の方法としてであり、けして積極的に奨励はしていないが、vedana (受)までは容認している。自然の移ろいを美しいと思っても良いのだ。それをあくまで移ろい去り逝くものとして眺め、そのままに留めたい(「止まれ。お前は美しい。」?)と思わなければ、、。少し気が楽になった。

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