曽我逸郎

《梵網経を読んで 縁による見解への執着》


2006年12月15日

 梵網経を読んだ。(片山一良訳 「パーリ仏典 長部 戒薀篇T」 大蔵出版)

 以前から何人かの人に薦められていて、謬見を破する経だと聞いていたので、少々恐れつつ読んだのであるが、意外な点もあった。少し考えてみたい。

 六十二の謬見の筆頭に挙げられているのは、瞑想によって過去生を次々と思い出し、それを根拠として「かの生けるものたちは、流転し、輪廻し、死去し、生まれかわるが、永遠に存在する」と考えること(常住論)だ。

 常住論が否定されるのは当然だが、驚いたのは、この部分の記述は、たとえば中部第4恐怖経などで釈尊成道の際の三明の第一として説かれる宿住随念智の記述とそっくりである。勿論、恐怖経では「永遠に存在する」といった主張はされていない。しかし、瞑想によって「思い出して」いる内容はまったく同じといってもいい。

 『私は、熱心によって、努力によって、勤勉によって、専心によって、熟慮によって、心が安定したとき、過去における種々の生存を・・・つぎつぎと思い出すような、そのような心の統一を得る。「そこでは、これこれの名があり、これこれの姓があり、これこれの色があり、これこれの食べ物があり、これこれの楽と苦を経験し、これこれの寿命があった。その私は、そこから死んで、あそこに生まれた。そこでも、これこれの名があり、これこれの姓があり、これこれの色があり、これこれの食べ物があり、これこれの楽と苦を経験し、これこれの寿命があった。その私は、そこから死んで、ここに生まれかわっているのである」と。このように具体的に、明瞭に、過去における種々の生存を、つぎつぎ思い出す。』
 蛇足ながら興味深いのは、ここで言っていることは、間違った瞑想をすればおかしな経験をする、ということではない。注(aTThakathA)によれば、「努力によって、勤勉によって、専心によって、熟慮によって」とは、「精進と念と智とによって」の意だという。つまり、正しい瞑想における経験だ。精進と念と智とによる正しい心の統一であっても、世界は有限だとか無限だとか、さまざまな相矛盾する経験をする。瞑想中の経験を絶対視してはならない。

 理屈を言えば、瞑想で同じ体験をしていても、「恐怖経は常住論を主張していないからセーフ、梵網経の否定対象ではない」と言うことは可能だろう。しかし、私には、恐怖経のもとに集う人々と梵網経を支持する人々とが同じグループだったとは思えない。あからさまに攻撃はしなくても、梵網経のグループは、恐怖経のグループに対してシニカルであったのではないだろうか。

・・・・

 本題に入ろう。

 梵網経では、六十二の誤った見解が詳しく説明されている。では、それらに対する正しい見解はなにかというと、明快に分かりやすい形では述べられていない。

 では、何が説かれているのか?
 六十二の誤った見解それぞれに関して、「何によって何に関して」それらが主張されているのかが分析され、それらの見解に至るプロセスに共通する誤りが指摘されている。

 この経の意図は、六十二の謬見をあげつらい攻撃することよりも、それら謬見に陥るプロセスに共通する問題点を明らかにすることではないだろうか。そして、この陥りがちな過ちを如実に知ることが、釈尊の教えであり、仏教の覚なのだと思う。

 いずれのの謬見に対しても、同じようにこう言われている。

 比丘たちよ、これについて、如来が知るところはこうです。「このように捉えられ、このように囚われたこれらの見地は、これこれの行方、これこれの来世をもたらすであろう」と。如来は、それ(A)を知り、またそれより勝れたもの(B)をも知ります。しかもその知ることに執着しません。執着しないから、ただひとり自ら、そこに寂滅が見られます。
 比丘たちよ、如来は、もろもろの感受の、生起と生滅と、楽味と危難と出離を、如実に知って、執着なく、解脱したのです。
 「それ(A)」とはなんだろうか? 謬見によって特定の来世がもたらされることであろうか? しかし、そうだとすると「それより勝れたもの(B)」が意味不明となる。
 「それ(A)」とは、それぞれの謬見のことだと思う。如来は、謬見の言わんとするところも、なぜそう考えるかも、その限界・問題点も分かっている。謬見より勝れたもの(B)も知っている。そして、その知るところに執着しない。執着できないことを知っているからだ。なぜなら、もろもろの感受の、生起と生滅と、楽味と危難と出離を、如実に知ったからである。

 この部分だけでは、何のことか理解に苦しむだろう。先を読み進もう。
 「煩悩・動揺の章」では、それぞれの謬見に対して繰り返しこのようにコメントしている。

 それは、かれら尊敬すべき沙門・バラモンが知らないまま見ないままに感受したことであり、渇愛に囚われた者たちの煩悶し動揺したことにすぎません。
 感受したことに訳も分からないまま囚われて、それぞれの謬見を主張している、と分析している。さらに「接触縁の章」には、かれら沙門・バラモンが謬見を主張しているのは、
 接触を縁としているのです。
 と説明している。その次の「道理不在の章」では、
 かれらが接触もなく感知できるという、この道理は存在しないのです。
 とあり、「輪転の話」には、
 さまざまな流説を述べるかれら沙門・バラモンも、
 そのすべての者は、六の接触処をとおして、つぎつぎと触れ、感知します。それらの感受を縁として渇愛が生じ、
 渇愛を縁として、取着が生じ、
 取着を縁として、生存が生じ、
 生存を縁として、生まれが生じ、
 生まれを縁として、老・死が生じ、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生じるのです。
 と説いている。

 すなわち、まとめるとこういうことであろう。

 多くの沙門・バラモンは、たまたまの接触を縁として引き起こされた感受に好悪の反応をし、それを絶対視して、さまざまな謬見に陥っている。
 一方、如来は、そういったさまざまな謬見へのこだわりは、すべてその時その時のたまたまの接触を縁として引き起こされる感受によるものであることを知っている。だから、特定の主義(謬見)を絶対視することはない。
 これは、さまざまな苦行を含むあらゆる状況において自己観察を徹底し、また人々のありさまにも鋭い観察眼をもっておられた釈尊であるからこその分析であろう。

 しかし、こういう批判もあろう。すなわち、「この考えでは、どういう主張も、たまたまそういう考えに陥っただけということになり、悪しき相対主義に陥るのではないか? なによりもこの見解自身が、たまたまの縁による偶然的な主張のひとつに過ぎないことになってしまい、それでは自家撞着ではないか?」

 そうかもしれない。しかし、如来の見解は、見解の相対化に止まるものではない。たまたま縁によって生じたものに執着するのは、見解に対してばかりではない。縁起の発見は、もっと深いところにまで届く。何にも増して、自分自身がそうだ。我々凡夫は、知らないまま見ないままに自分自身を感受し、囚われ、執着している。

 それに対して、如来は、「もろもろの感受の、生起と生滅と、楽味と危難と出離を、如実に知って」おり、自分自身が接触・感受といった縁によってそのつど生じていることも如実に知っている。従って、いくら自分に執着しても執着できないことを知っている。その結果、執着が鎮まるから、如来においては、「寂滅が見られ」るのだ。

【 2006,12,24,加筆 】
 この後、またつらつらととりとめなく考えた。

 中部38大愛尽経には、「感覚器官(例えば、眼)とその対象(例えば、色)から、それぞれの識(例えば、眼識)が生まれる」としている。梵網経の上記の読みの趣旨を、愛尽経の言い方で言い直せば、以下のようになろう。

 対象が感覚器官に接触することを縁として、感受が起こり、そのたびに識が起こされる。その識を縁にして、さらにさまざまな見解が生じてくる。このプロセスは、ほとんどの場合、自動的無反省に盲目的に起こる。
 「尊敬すべき沙門・バラモン」たちは、このプロセスを知らず、感受によって生じた識を真実だと信じ込み、それによって謬見に陥っている。
 それに対して、如来は、このプロセスを知っている。それは、すなわち、言い換えると、自分が縁起の現象であることを知っている、ということだ。だから、執着しないのは、見解に対してばかりではなく、自分にも執着しない。だから、ひとり寂滅している。

 ところで、この考えはこういう考えにも発展し得る。
 すなわち、感覚器官に接触する対象と、それらを縁として起こされる識とは、同じではない。識は、対象の正確な反映ではない。その時々の状態・状況を縁として、感受はさまざまに変化する。対象は、識には永遠かつ原理的に手が届かない。識には識しかない。

 後の唯識は、この自覚から生まれたのではないだろうか?
 この考えは、けしてソリプシズムではない。対象を前提としている。識を起こす縁のひとつとして、対象は不可欠だ。しかし、識には識があるだけで、自分を引き起こす縁をもたらした対象そのものは知ることができない。

 であるとすれば、諸法実相とか真如とかいう言葉が世界の真の姿を意味するのであれば、これらの言葉は、本来唯識とはまったく相容れない概念ではないだろうか? 諸法実相とか真如とかいうものは、「知らないまま見ないままに感受したことであり、渇愛に囚われた者たちの煩悶し動揺したこと」だと思う。

 瑜伽行で自己観察に取り組んだ人たちは、呆れるほど不安定に脈絡なくつぎつぎと識が起こるさまを見て、惜しむに足りない識の軽さを実感したのだと思う。

 しかし、時を経ると、瑜伽行の不自然な状況を縁として立ち起こる超自然的な内容の識(妄想)を過大に受け止めるものが出はじめ、その出所として阿頼耶識の存在を言い募ったり、諸法実相に触れた、真如を見た、などと自信たっぷりに主張し始めたのだと思う。


 ・・・ご意見お聞かせ下されば幸甚です。

2006,12,15,  曽我逸郎

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