ミッシング(ラストシーン)

 

1970年に成立したチリのアジェンデ人民連合政府は、1973年に軍部、警察のクーデターにより倒され、代わってピノチェトの軍事政権になった。

 これは1982年に制作されたアメリカの映画である。首都のサンチェゴ市で行方不明になった一人息子の消息を求めて、父親と息子の妻が尋ね歩く。実際には息子は既に現地の軍部に逮捕され、3日後には処刑(いやな言い方である。殺されたというべきである)されてしまっているのだが、自国人の生命を守るべきアメリカ大使館や領事館の人間たちが言を左右にして何とかごまかそうとする。それはチリ政権のクーデターにアメリカ政府も深く関与していたからである。
 国益というメンツの為に一市民の生命などに係わってはおれないという役人、軍人たちの慇懃無礼で冷酷な姿に静かに抗議している制作者の意思が伝わって来る作品であると思う。

 政治に関心を持っている30歳前後の小説家志望らしい青年チャールズ・ホーマンは妻のベスと共にチリの首都サンチェゴにニューヨークからやって来た。そこで現地の新聞社(軍部に言わせれば左翼系新聞ということになる)に記事を書いたりしている。クーデターの時に軍部による虐殺があったらしいと言う情報を聞いて調べたり、見聞きしたことをノートに書きつける。これらの行動がチリの軍部ににらまれる原因となり、ある晩妻の不在中に家捜しをされそのままどこかへ連れ去られてしまう。

 息子が行方不明になったことを聞いてアメリカから父親(エドモンド・ホーマン)がサンチェゴにやって来て息子の妻と一緒に方々を探して歩くのだが、政府関係者は行方不明になったのだろうなどといいかげんな事を言っているばかりである。それでもワシントンでは有力な議員達の支援を得ている父親に対して冷淡な態度をとるわけにも行かず、病院や,死体置き場に案内する。

 その中でも刑務所の代わりにしていた競技場でのシーンには唖然とさせられる。逮捕した人間が多すぎて収容するところが無く、連行した人間を陸上か何かの競技場にいれ、武装した兵士が警備しているのである。父親のホーマンとチャールズの妻ベスが、そこにいるかもしれないチャールズに向かってマイクで呼びかけるが答えはない。切々と訴える父親の心情を察するとたまらなくなってくる。

 結局別の筋からの情報で息子はやはりチリの軍部によって殺されてしまっていたことが分かる。それでもまだその事を知らないと思っているアメリカ大使の態度に怒りをぶっつけ、息子の遺品を整理してアメリカに帰るのだが、息子の書いた絵やノートを見ながら、いとおしくてひとしお哀しさが増してくるのである。嫁のベスに対しては初め好い印象を持っていなかったが、一緒に探して歩くうちに心を通じ合うようになる。

 帰国後、ホーマンは当時のキッシンジャー国務長官以下政府関係者11名を息子の死に対する共謀と過失の罪で訴えたが、共謀についての事実は国家機密に属すると言うことで立証することが出来ず敗訴となった。また息子の遺体は2,3日後に送り返すと言う約束になっていたが、実際に戻されてきたのは7ヶ月後だったという。

 日本に住んでおれば想像することも出来ないような事実が、世界には実在しているということに今更ながら衝撃を覚えると同時に、善良でつつましい生活を送っている一市民の運命が国益のためという実体の無い言葉によって翻弄されていることに強い怒りを感ずるのである。

 一人息子を失った父親、夫を失った妻の二人が空港のゲートに向かって歩いていくシーン、その後姿には単なる悲しみばかりではないものがあるような気がしてならないのである。(ミッシング)(00/12/22)
(J F K)