J F K(ラストシーン

 

1963年11月22日午後12時30分、アメリカ35代大統領のJ.F.ケネディが遊説先のダラス市で狙撃により暗殺された。ケネディは午後1時に死亡。犯人として24歳の青年リー・オズワルドが逮捕され、ダラス市警察はオズワルドが単独で行った犯行であると発表した。
 この暗殺については最初からいろいろ謎が多かったようであるが、アメリカ政府が設置した暗殺調査委員会のウォーレン委員会もオズワルドが単独で行った犯行であるという調査報告書を公式見解とした。

 一方、ルィジアナ州ニューオーリンズの地方検事であったジム・ギャリソンは、オズワルドと交際のあったデビッド・フェリーという人物が、暗殺当日ダラスまで出かけて行き、犯人の逃亡に一役かったという情報を偶然の機会に得た。またオズワルドも3ヶ月ばかりニューオーリンズに住んでいたことがあるので、この両者の関係を調査しFBIに報告した。しかしFBIはデビッド・フェリーと暗殺とを結びつける証拠は見つからなかったとしてフェリーを釈放した。

 暗殺事件の3年後、ルイジアナ州選出の上院議員との話の中で、ケネディ暗殺がオズワルド一人の力で実行出来るはずがないと言うのを聞き、ギャリソンもウオーレン委員会の報告書を調べてみる気になった。

 そして先ず感じたのは当時からいわれていた複数人数による犯行ではないかという言う説に対してウオーレン委員会は全く関心を示さずに、オズワルドによる単独犯行であると強引に結論付けていることへの深い疑問であった。

 調べれば調べるほど彼の疑問は深まったが、その過程で元CIAのエージェントのクレイ・ショーという人物がフェリーと交際があったということが分かり、このクレイ・ショーがケネディ暗殺に深く係わったと言う容疑で逮捕し、起訴したのである。裁判は1967年3月に始まったが、結局ショーは無罪となった。

 後年ギャリソンはこの経過を「JFK]という書物にし出版した。映画はこの著書に基ずいてシナリオ化された。

 裁判の過程でギャリソンはケネディ暗殺はオズワルドによる単独の犯行ではない。いやオズワルドは銃を発射さえしていない。CIAを中心とした一部の政府関係者が計画実行した犯行であるという説を立てている。

 また実際の現場における事実関係では、オズワルドが後ろの教科書ビルの6階の窓から3発の銃弾を発射したとされているが、そうではなく前方の丘にも狙撃犯人がおり、そこからの銃弾が致命傷になったとしている。

 クレイ・ショーやデビッド・フェリーなどの人物背景が映画を見ている範囲ではよく理解出来ない面もあるが、法廷の中で暗殺シーンを撮影した8ミリフィルム(ザプルーダ・フィルムといわれているもの・・・・・ザプルーダという人がたまたま当日ケネディのパレードを撮影していた)の映写と5発の銃弾が発射されたという説明は圧巻である。

 1発目 ケネディの進行方向の前にある丘から発射され、ケネディの首を貫通した。
 2発目 後方のダル・テックスビルから発射。右肩下に命中。
 3発目 2発目と殆ど同時に後方の教科書ビルから発射され、前にいたコナリー・テキサス州知事の胸を貫通した。
 4発目 ダルテックス・ビルから発射。そして前方の通りのコンクリートカーブの縁にあたる。
 5発目 前方の丘から発射された銃弾が右後頭部を打ち抜き、これが致命傷になった。
 
 CIAは当時キューバのカストロ政権に対して攻撃作戦を計画実行していたが、ケネディ大統領がこれに対してその実行を許可しなかった。またベトナム戦争に深く介入することに反対であった。これらのことが軍部、CIAの反感をかい、ケネディ排除に至ったとする論もあったようだ。
 いずれにしてもオズワルドの単独による犯行であるとし、検死写真や、X線写真、その他の資料を75年間公開しないことにしている過去現在のアメリカ政府の思惑はどの辺にあるのか、この映画を見ているとますます分からなくなって来るのである。(JFK)(01/01/31)
(タイタニック)