西部戦線異常なし(ラストシーン)

 第一次世界大戦の最中、今日は珍しくフランス軍からの砲撃がなく、ドイツ軍の塹壕の中の兵士達は壕内に溜まった雨水を汲み出したりしている長閑な日である。しかしそのなかで敵の襲撃に備えて銃眼に銃を構える任務についていていた若い兵士ポールは、構えた銃の先に一羽の蝶がいるのを目にした。それは敵味方の銃砲弾で土肌のみになってしまった殺風景な風景には似合わない可憐な姿であった。シーズンが過ぎてしまった秋のある日、軽やかに舞うことが出来ないのか空き缶の蓋の上にじっとたたずんでいる蝶の姿を見て、戦友の死に立ち会ったばかりの青年は生命の愛おしさを感じずにはおれなかったのであろう。思わず微笑をもらしたポールはその蝶を捕まえようとして塹壕の土嚢の上に身を乗り出そうとしている。

 しかしフランス軍の塹壕にいた兵士の一人が、身を乗り出したポールを見て銃を構え照準を定める。手招きしながらそっと蝶に近づいて行こうとしている手は、突然の一発の銃声と共に後ろにはじかれ、そして力なく地上に横たわってしまう。夢も希望もあったであろう一人の若い青年の命が戦争という環境の中でこうしていとも簡単に消え去ってしまった。
 彼が築き上げた20年の人生、さらにはその何倍かの人生での中でやり遂げられたかもしれない全ての可能性を無残にも打ち砕いてしまった一発の銃弾に、なんともやりきれない空しさを感じてしまう。

 戦争映画のシーンの中で多くの命が失われて行くのを何度も見せられている。戦争のむごたらしさ、無意味さを無論感じさせられるが、このシーンは一人の人間の命が何の理由も意味もなしに突然失われて行く死として描かれているために、かえって生々しい現実感を伴って我々に怒りと、戦争の不条理さを訴えかけているのであると思う。

 映画の前半で中学の教師が生徒達に戦争参加を呼びかけるシーン。我々の少年時代にも同じようなことがあった。時代の風潮に軽率に乗せられて正義の士よろしく、生徒達を煽動する教師像は裏を返せばその反動としての戦後の教師像ではないだろうか。教師ばかりでなくジャーナリズムを初め、世の中一般が時代の熱気にあおられて冷静な判断を失い、付和雷同して我こそはと正義の使者たらんとして喚いているのは何時の時代にも見られる浅ましい人間像なのかと思わず失望させられてしまうのである。(西部戦線異常なし)(00/10/15)

(キリング・フィールド)