大いなる幻影(ラストシーン)

 膝まで没する雪の深い山の斜面を二人の男達が転がるようにして駆け下りて行く。苦労に苦労を重ねてやっと自由になることの出来る、スイスの国境を超えたところである。山の頂上では国境を監視していた数人のドイツ兵がそれを見送って「運のいい奴らだ」とつぶやいている。この少し前に国境を超えようとしていた二人を巡邏中にたまたま発見し、2、3人の兵が発砲するが、指揮官らしき兵が「彼らは既にスイス領内にいるのだ」と言ってそれを止めさせる。この一言の中に当時の人々の戦争に対する考え方、あるいは西欧社会に共通した騎士道的概念がはしなくも表されているように思われる。

 第一次世界大戦に題材をとったこの作品は主に3人のフランス軍捕虜将校とドイツの捕虜収容所所長を軸にして展開する物語である。貴族出身のボアルデュー大尉とパリの職工であったマレシャル中尉はある日偵察機に乗って敵情を偵察するように命令されて出撃するが、撃墜されてドイツ軍の捕虜収容所に送られる。その収容所で一緒になったのが裕福なユダヤ人の息子のロザンタールという設定だ。最初の収容所では缶詰の缶を使って地下道を掘り脱走を計画する。日本軍では戦前、捕虜になることを最大の恥辱とする教育がされていたが西欧人にとってはそれは恥でも何でもなく、収容所で脱走計画を練ってそれを実行し敵陣の後方を撹乱するのが一つの義務になっているようである。捕虜収容所からの脱走を題材にした映画はこの他にも多く見ることが出来る。

 計画は、地下道の完成前に別の収容所に移されてしまったので実現しなかった。次に送られたのは高さが30メートル以上もある古い城であった。そこの収容所の所長がドイツ貴族の出身で、偶然にも自分達の偵察機を撃墜した同じく空軍大尉であった。彼は捕虜収容所の所長として捕虜達を厳格に扱うが、一方、同じ貴族の出身ということでボアルデュー大尉を呼んでお茶を飲みながら、共通の話題を語り合う。ボアルデュー大尉がなぜ自分だけをお茶に呼んでくれたのかと尋ねたとき、「貴方はフランス軍の歴戦の勇士だからです。私もドイツ軍の勇士だ」と答える。「マレシャルやロザンタールだって戦士ですよ」というのに対して「彼らは革命の産物だ」と言う。戦闘を離れたときに敵の将校に払う敬意と親しみは古くからの騎士道精神が脈々と波打っていて感動させられる。また戦争が終わったら自分たちは用がなくなって終わりであると淋しげに語るドイツ軍将校の表情も印象的である。

 最後にはボアルデュ−大尉(彼自身は打たれて死んでしまうが)が協力し、マレシャルとロザンタールは脱出に成功する。 国境を超える前に二人で交わす会話。 

 「国境は人間が引いたものだ」。
 「戦争なんてこれで最後にしたい」。
 「幻影だ・・・・・・・・・・・・」。

 戦争が個人の運命に与える悲惨さを静かに訴えているシーンである。

 途中、一寸したことで言い争いをし、「ユダヤ人のくせに」と言って悪態をつくところがあるが、この辺のところが日本人たる私には見ていて全く理解する事の出来ない場面である。更に言えば、西欧の騎士道と言われる精神は、日本で言えば「武士道」に相当するということになるのかもしれないが、感覚的には彼ら西欧人社会だけの間に通用する規範なのではないかという風にも思われる。会田雄二の「アーロン収容所」などを読むと、余計にそのようなことが気になって仕方がない。あるいは第一次大戦から第二次大戦に到るニ十数年の間に、近代戦争兵器の進歩と共に人間そのものの価値観、倫理観などもそれにつれてすっかり変わってしまったのであろうか。(大いなる幻影)(00/08/22)

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