オーケストラの少女(ラストシーン)

 トロンボーン奏者のジョン・カードウェルは失業中の身、その娘パトリシアは歌の上手な活発な少女である。父親はなんとか交響楽団の団員として雇ってもらうよう、劇場へ行き指揮者のストコフスキーに直接会って交渉しようとするが、もちろん相手にされずすごすごと引き返す。その時音楽会の会場で有閑マダムの落とした財布を拾う。落とした本人を見失ってしまった彼はそのまま家に帰るが、住んでいるアパートの持ち主に家賃を催促され、ついその財布の中から家賃を払ってしまう。パトリシアはその財布を持ち主の金持ち夫人に返しに行く。

 この時に有閑マダムが気まぐれに冗談のつもりで言った言葉が、話としては誤解、行き違いを生じ、トロンボーン奏者とパトリシアは、楽団を作れば援助してもらえると思い込み、失業中の楽器演奏者100人を募集して交響楽団を結成してしまったのである。マダムの夫は実業家でラジオ局も経営しているが、文化とか芸術などには全く関心はない。毎日財界の仲間同士でちょっとした騙しあいをするのが唯一の楽しみといった人物のようである。素人を寄せ集めたような無名の楽団など儲からないから援助しないと楽団員の前で宣言する。ただし、有名な指揮者がいるとかその他の方法で有名になり世間に知られるようになったら考えてもいいと言う。

 この言葉を聞いたパトリシアはストコフスキーに父親の楽団を指揮してもらおうと思いつく。この著名な指揮者に接触しようとして劇場に忍び込むが樂屋番に見つかり追い返されそうになる。それをうまくすり抜けて演奏の練習をしているホールにはいった。

 このあたりの映画の進行はユーモラスで話の中に暗さがない。失業中の父親の表情にも絶望感とか失意を感じさせるものがない。またパトリシアを乗せてあちこち走り回るタクシー運転手が、運賃をもらうことが出来そうにないにも拘らず、せっせと付き合っている光景は、タクシー運転手の人柄の善良さもさることながら、アメリカの社会全体がようやく不景気を脱して明るさが戻ってきた有様を象徴しているのではないかという気がするのである。この映画が現実にはあり得ない話の進行であるにも拘らずそれを不自然と感じないのは画面全体に現れている巧らざるユーモアの感覚、登場人物の善良性と明るさではないかと思うのである。

 パトリシアの願いはストコフスキーに断られて万事休するかにみえるが、最後に楽団員全員を劇場に忍び込ませ、ストコフスキーの執務室の前で演奏させるという賭けに出る。階段や廊下全体に陣取って演奏を始めたのはリストの「ハンガリア狂詩曲2番」である。突然鳴り響いた音に驚いて出て来たストコフスキーはしばらくの間、当惑したような表情を見せるが、やがて楽団員の腕前に感心したのかあるいはその熱意にほだされたのか、しばらく手で調子を合わせているうちに、やがて指揮を取り始める。
それに気付いた団員達の嬉しそうな顔、パトリシアの喜びの表情等が、見ている私達に伝わって来る。やがて画面は本式の演奏会の場面へとオーバーラップして行き、そして最後にパトリシアが「椿姫」のアリアを歌ってTHE ENDとなる。「ハンガリア狂詩曲」はピアノ用に作られた曲だったと思うが、交響曲用に編曲されているのを聞くと、カードウエルが高らかに吹き鳴らすトロンボーン等も含めて、軽快な楽しさがいっそう増しているように思われる。音楽の持つ不思議な魅力をあらためて考えされるシーンではないだろうか。(オーケストラの少女)(00/08/10)

(ここに泉あり)