ここに泉あり(ラストシーン)        

 前回の「オーケストラの少女」は1937年のアメリカ映画であるが、こちらは敗戦後の間もない頃、音楽好きのアマチュアの寄り集まりであった楽団がさまざまの苦難の末、プロのオーケストラとして成長して行く有様を実際の群馬交響楽団の成立の歴史に題材をとって映画化されたものである。最後の方で、山田耕作が練習場で指揮棒を振って練習している場面から日比谷公会堂の演奏会でベートーベンの第九交響曲を演奏している場面へとオーバーラップしていくところは「オーケストラの少女」と同じような設定である。しかし一方はヨーロッパが戦雲急を告げているとはいえ、まだ戦争に巻き込まれてはいない時代の豊かなアメリカで制作された夢物語のような映画であるのにくらべ、こちらは敗戦後の混乱の中、食うや食わずの日本の社会情勢を背景になんとか地方にも専門の交響楽団を育てたいと念願して苦闘した人々の物語なのである。

 音楽といえばNHKラジオの第二放送で週に何時間クラシックが放送されていたのか、当時中学生だった私には殆ど記憶がない。大体戦後間もない頃であったにも拘らず、音楽をやるのは軟弱であるといった気風が田舎の中学にはまだ残っていたのである。レコードはSPレコードで表裏で6分位の演奏時間である。第九などは十数枚に分かれていたから持ち運びだけでも大変だった。LPレコードが出て来たのは昭和30年前後だったと思う。東京でさえまともな演奏会を開くことが出来るのは日比谷公会堂くらいのものだったのではなかろうか。まして地方などではクラシックの生の演奏を聞くなど夢のような時代であったのである。そういう時代背景の中で何とか地方にも音楽文化を育てたいと悪戦苦闘した人がいたということはこの映画を見ていて感動させられる。

 運営資金を得るため、山深い田舎の小学校に行って演奏会を開く。あるいはチンドン屋のアルバイトで稼ぐ。マネージャ役の小林圭樹の奮闘する姿が痛々しい。東京からやって来たバイオリニストの速水(岡田英次)がアマチュア気分でやっていては駄目だと、地元にもとからいる人達と対立する。給料がもらえず引き抜かれて行く人間が続出する。あれやこれやでついに解散するところまで追い詰められてしまった。

 解散する前にみんなで最後の演奏会をやろうということで山奥の小学校に出かけることになった。その小学校には分校があり、そこからも子供達が集まって来た。クラシックの生演奏を聞くのは勿論初めてである。みんな珍しそうに熱心に聞く。演奏する側もこれが最後だという思いがあるから自然に心がこもる。そして音楽会が終わったとき各自がそれぞれの感慨を抱いて帰途につく。

 分校の子供達がまた山奥の校舎に帰って行くとき、谷あいの山道から団員達に手を振って別れを告げ、そして「夕焼け小焼けの赤トンボ・・・・・・」と歌い出す。入道雲がぽっかりと浮かんでいる山すその麓の遠くの道から聞こえてくる「赤トンボ」の合唱。ただ山と青い空(白黒の映画ではあるが)と白い雲、その中に小さく子供達の姿がかいま見えて、きれいな合唱が聞こえてくる。詩情味溢れるシーンである。

 これを機に楽団は解散することを取りやめ、その後も苦労しながら少しずつ成長して行くのだが、その辺は数年後という表現でかたずけられており、前述の練習演奏へと話が飛んでいる。

 この映画の撮影は昭和30年か31年だったか、私もエキストラの一員として参加した。といっても大げさなものではなく、日比谷公会堂で第九の演奏を撮影するときの一般聴衆を集めるために、新聞広告で募集しているのを見て葉書で応募し当日出かけたというわけである。比較的前の方の正面通路寄りに座った。映画が公開されたとき、目を皿のようにしてやっと自分らしき姿を見つけたが、今テレビの画面で見ると、ディスプレーのセーフティゾーンに引っかかっていてはっきりと判らないのはまことに残念至極と思う次第である。(ここに泉あり)(00/08/11)

(大いなる幻影)