自転車泥棒(ラストシーン) 


 映画やテレビドラマで何を訴えたいのか、その思いの端的に現れているのがこの「自転車泥棒」のラストシーンではないだろうか。父親の手をしっかりと握り締め、ハンカチで汗と涙をふきながら懸命に父親について行く6歳の男の子。恥ずかしさからまともに子供の顔を見ることが出来ず、真っ直ぐ前を見詰めて歩いている父親だが、心配そうな子供の視線を感じてそちらを見やり、悔悟の念にかられて今にも泣き出しそうな表情をしている顔。やがて二人の姿は夫々の想いを抱きながら群集の雑踏の中に消えて行く・・・・・・。そして私までもこの親子の感情の推移にとらわれてしまってしばらくの間、スクリーンの前から立ち去ることが出来ない、そのような気持ちにさせられるラストシーンなのである。

 話の筋としてはとりたてて波乱万丈の物語があるというものではない。1948年(昭和23年)というから、日本と同じく、敗戦国となったイタリアのローマでの平凡な一庶民の身の回りに起きたストーリーである。

 失業の中、自転車が必要という条件でやっとありついたビラ張りの仕事。質屋に入れてあった自転車を妻がなんとか工面して出してくれた。これでやっと親子三人暮らしていけると喜んだのも束の間、その大事な自転車を仕事の最中に盗まれてしまった。
 近所の人も協力してくれて盗んだ犯人を探して歩くがなかなかうまくいかない。父親について一緒に探し歩く少年の表情がなんともいえず可憐でいじらしい。犯人らしき男を探し当てて問い詰めるのだが、その近所の住民に妨害されて結局は自転車を取り戻すことが出来ないのである。


 通りかかったフットボール場の前に置かれている、観客達が乗って来た何百台とある自転車をじっと見つめる男の表情、疲労と絶望に暮れて歩道の石の上にしゃがみこんでしまう少年の姿。いずれもがラストシーンの伏線となっているように思われ、私の心をゆさぶるのである。ついに何事かを決心したかのように、先に家に帰れといって、嫌がる子供に電車賃を渡し叱るようにして追い返す。そして人けのないアパートの入り口に置いてあった自転車を盗むのである。しかしその時偶然出てきた持ち主に見つかり、「泥棒!泥棒”」と叫ばれ、必死になって自転車をこいで逃げるが、声に気づいた路上の人達に取り押さえられてしまい、警察に連行されようとしている。この時、電車に乗ることが出来なかった子供がこの騒ぎに気がつき、あわてて父親の所に駆けつける。父親にしがみついて一緒に歩いている子供を見て不憫に感じた自転車の持ち主が、なかったことにすると云って許してくれた。

 警察に突き出されずに済んだとはいえ、子供の目の前で自分が犯した泥棒という行為に対する自己嫌悪、群集に追いかけられ捕まってしまってから小突き回されたり、罵られたりした屈辱感、これらの入り混じった複雑な感情で子供の顔をまともに見ることが出来ない。一方子供の方は、大きく偉大な存在である自分の父親が泥棒行為をしたとは云え、見知らぬ大勢の人間に取り囲まれて口々に罵倒され軽蔑の言葉をあびせかけられた。その様子がたまらなくつらく悲しく、すすり泣きながら、父親と一緒に歩いている。この時この少年の小さな心に去来した想いは何であったのだろうか。そっと父親の方に手を伸ばしてしっかりつかまろうとする少年の心情、その手を固く握り返す父親の手、この瞬間に親子の気持ちは通じあったのであろうか。父親は情けなく恥ずかしく、子供はただ悲しく。そして群集の中に紛れ込んでやがてその中に消えて行こうとする親子のうしろ姿をラストシーンとして描いた監督の願いは、消えることはないにしても、しかし時の経過が二人の心の傷を早く癒してくれることを祈って設定したシーンではないかと想像するのだが、このように感ずるのははたして私ひとりだけであろうか。(自転車泥棒)(00/07/16) 

(ローマの休日)