自己紹介と このホームページの意図

「俺は何をしたいのか?」「何をすべきなのか?」
誰もが一度は悩む問題です。

ご多聞に漏れず、若かりし頃、私もこれにとりつかれ、大学で一旦は仏教学を学ぼうと志しました。しかし、ちょっとかじったサンスクリット語のあまりの歯ごたえに恐れをなし、「今の仏教学は文献学にすぎない、俺はみずから思索するのだ」と負け犬らしく遠吠えて、哲学専攻に日和りました。ところが、哲学科というのは、なにをしてもいい、なにもしなくてもいいところ。根が怠惰な私は、案の定なにもせず、ますます「何をすべきか?」の底無し沼に沈んでいきました。疲れ果てた挙げ句、気分を変えて現実を学ぼうと就職したものの、人間の本質は変わらず、だましだまし仕事をしながら細々とインド大乗仏教の勉強を続けてきました。

大学を卒業してもう十数年がたち、最近ようやく冒頭の疑問に自分なりの仮説を見つけ出せたように思います。振りかえれば、そのほとんどは、他ならぬ「文献学者」の方々のインド大乗仏教の研究や翻訳に負っています。

釈尊の教えが得難い時代を末法というなら、まさに末法の今、正法を学ぼうとする時に頼りになるのは、有名なお坊さんの説法でも、禅やヨーガによる「(いきなりの)宗教的体験」でもなく、文献学的研究成果だけではないかと思います。そして、そうした学問的研究が教える仏教を読んでみると、現代の世間一般の常識的な仏教との隔たりにも驚かざるを得ません。儀礼化した現代日本の仏教に対して、文献学的研究によって掘り出されたインド大乗仏教は、映画ジュラシック・パークの恐竜のように宗教としての命をその奥に秘め、現代の我々を救う力を備えています。

しかし、残念なことに仏教学は専門的すぎて学問の外にほとんど広がっていません。救いを求める人は多いのに、その成果はひろく人々と共有されていません。また、仏教学が扱うテキストも、ほとんど十世紀以上昔の経や論で、現在の一般の人々には共感の得にくいものであることも事実です。

そこで、文献学が与えてくれたインド大乗仏教の教えを、学としてではなく、経=物語として、現代の人々にふさわしい方便をもって書いてみようとする試みが、以下の「偽経」です。

わたしは、中途半端な人間です。学問は上に書いたとおりですし、禅もさる老師に一年少し参禅させていただいただけで終わっています。もとより自分の仏教理解が深く正しいなどとは思っていません。以下は現時点の仮説にすぎず、常識的な立場からするとおそらくかなり偏った仏教解釈です。多くの人からご教授ご批判をいただいて、この仮説を解体し、深めたいと願います。同時に、もし仏教の学問的研究の成果に興味を持ってくださる方が一人でも現れたら、これに勝る喜びはありません。
 (頂いたメールは私の返事ともども当HP上で公開することがあります。不都合であれば、その旨お書き添えください。)

【 2004年2月5日加筆 】
 1997年の秋に初めてホームページというものをつくってから6年半近くが過ぎました。この間、皆様からのたくさんの御質問や御批判によって、自分では見えていなかった様々な問題点を指摘して頂きました。お陰様で私の考えも、当初から随分と変わってきています。現在では、インド大乗よりも釈尊のお考えになんとか迫りたいという気持ちが強くなっています。無価値な生をいかにちゃんと生きるかという問題意識には、変わりはないのですが、、。
 一度公開した文章は、消さないようにしているので、新旧相矛盾した内容がしばしばあり、申し訳ありませんが、日付を見て御判断下さい。特に、原点ともいうべき「あたりまえ、、般若経」の本文は、今となっては随分問題点を感じますが、どうしようもありません。
 タイトルページを下にスクロールするとGoogleサイト内検索があるので、これでキイワード検索して頂くのも便利かもしれません。
 今後とも、よろしく御批判の程、お願い申し上げます。

曽我逸郎

soga@dia.janis.or.jp

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