二十七話

 北原新田を開発した佐藤権左衛門と佐藤権右衛門

 寛永一八年(一六四一)、 ( こし ) ( まえ ) 新田(飯山市常盤)の佐藤 ( ごん ) 左衛門 ( ざえもん ) は、飯山藩へ北原地積(飯山市瑞穂、北原)での新田開発を願い出ました。用水は野沢村を流れる赤滝川から分水し、坪山村地内を経由して、山腹を横切って柏尾村北組まで引こうとしたのです。途中、北原地積で水を引き落として、新開地に 灌漑 ( かんがい ) する計画を立てました。

この佐藤権左衛門とは、どういう人物だったのでしょうか。父親は市兵衛といい、越の前新田村や吉村(飯山市木島、吉)の開発に着手した人でした。佐藤家の家伝では、武田家のもと家臣で、のちに高遠城主になった保科家に仕えた、武士の家筋だったいいます。  

父から越の前新田を受け継いだ佐藤権左衛門は、一〇町歩を超える土地を所有していました。飯山藩の ( こおり ) 奉行 ( ぶぎょう ) に任じられなどした佐藤権左衛門は、延宝元年(一六七三)に亡くなりますが、二六年後の元禄一二年(一六九九)から、越の前新田は戸狩新田と公称されるようになりました。越の前という地字には現在、松の木と 庚申塔 ( こうしんとう ) が建っています。

さて、佐藤権左衛門が新たに開発を企てた北原地積は、越の前新田から千曲川の対岸下流に見通せる場所にありました。北原地積の西には千曲川が流れていますが、残念なことに水面が低いために、灌漑や飲み水としては使えないのです。そこで、 毛無山 ( けなしやま ) に源を発する赤滝川から、はるばる水を引くことにしたのです。

 北原地籍の開発が飯山藩から認められて、用水 ( せぎ ) が引かれました。これがこんにち北原区と柏尾区との共同用水になっている「下堰」です。この堰は千曲川を望む傾斜のきつい山腹を迂回していて、長さは約三・五?あります。下堰が完成したのは、佐藤権左衛門が財力と堰掘り経験とを兼ねそなえていたことによると伝えられています。

飯山藩役人の 野田 ( のだ ) ( ) 左衛門 ( ざえもん ) は、関田山脈の峯近くの茶屋池を水源とする ( たいら ) 用水(常盤 田圃 ( たんぼ ) を潤す用水)を 開削 ( かいさく ) したことでよく知られています。じつは、この用水開削には佐藤権左衛門が深くかかわっていました。堰開削の功労によって、同家は平用水の管理特権を 後々 ( のちのち ) まで握りました。

ところで、北原区に残されている史料によれば、佐藤権左衛門が引いたとされる下堰の灌漑面積は、柏尾村分が約九割で、北原新田分は一割にすぎません。また、平用水のような利用特権が彼には与えられていません。

こうしたことから、佐藤権左衛門が北原地積への引水を願い出たとき、すでに下堰はあったのではないかという考えがあります(『新編瑞穂村誌』)。佐藤権左衛門は古い堰を改修しただけなのではないかというのです。これは今後の課題にしておきます。

さて、北原新田村は、寛文四年(一六六四)にはじめて飯山藩の検地を受けました。家数は一一軒、耕地はあわせて四町歩余、石高はわずか三五石ほどでした。「権左衛門 ( ぶん ) 」の土地のほかに、「飯山 家中 ( かちゅう ) 藩士 ( はんし ) )分」の土地が検地帳に記されています。したがって開発は、数人の藩士( ( さむらい ) )の出資によってもなされたと考えられます。

こうした場合、土地の名義人は藩士ですが、じっさいの耕作者は地元の百姓たちでした。このような「家中 請負 ( うけおい ) 」による新田開発は、飯山藩の初期新田ではしばしば見られたすがたでした。

「北原新田では水利特権も得られず、地形的にも発展の余地がない」。そう判断した佐藤権左衛門は、越の前新田へもどってしまいました。あとは、分家の ( ごん ) 右衛門 ( えもん ) にまかせたのです。権左衛門家から分家した佐藤権右衛門が、北原新田の大部分の耕地を譲り受け、村政権も継ぎました。これが寛文一〇年(一六七〇)ごろのことでした。

初代の佐藤権右衛門は、二〇年ちかく村政に携わり、新田の開発に力を注ぎました。彼は貞享四年(一六八七)に亡くなりましたが、その後は当家だけが代々、庄屋・名主をつとめています。また、二代目、三代目のころには村内に数軒の分家をだしています。北原新田の家数・人口は、享保二〇年(一七三五)に二五戸、一一〇人。その後は大きな変化はなく、慶応四年(一八六八)には三三戸、一六〇人でした。

さて、下堰の水は野沢村との約束で、田用水に必要な春から秋までしか使えませんでした。そのため、北原新田の水不足は深刻でした。水掛けはもちろん、土手 普請 ( ぶしん ) や堰 ( さら ) いなど、管理のいっさいは、野沢村の認可や立ち合いが必要とされていたのです。飲み水を確保するために、冬季も引水できるよう、くりかえし野沢村に嘆願しました。待望久しく、それが認められたのは、天保一四年(一八四三)のことでした。

その後まもなく、下堰は二度、大きな災害にみまわれました。一度目は弘化四年(一八四七)の善光寺地震のときです。山崩れが起きて、下堰の一部が土砂で埋まるという 惨事 ( さんじ ) でした。二度目は嘉永四年(一八五一)の冬でした。大雪が下堰へ吹き込んで、水を止めてしまいました。やがて土手が抜けて、大量の土砂が水田を ( おお ) ったのです。冬季に引水したことが ( わざわい ) を生む結果となってしまいました。

災害のたびに、北原新田と柏尾村北組は人足を動員して、大掛りな復旧普請をおこなってきました。今なお赤滝川から豊かな水を運んでいる下堰ですが、先人たちの労苦が ( しの ) ばれます。
北原区付近の水系図(『新編瑞穂村誌』)
万延元年(一八六〇)、 越の前に、当時の佐藤権左衛門らが世話人となって建てた庚申塔。後方は飯山照丘高校と戸狩新田地区。
赤滝川からの下堰取水口( 西の越)。野沢温泉村最終処分場の隣。

整備された現在の下堰。

佐藤権右衛門家に伝わる歴代当主の事歴書き。

南北に細長く伸びる北原区の集落。

二十六話

斑尾大池を築造した大内梅多ら永江地区の人々

 斑尾大池(標高八二六メートル)は、観光地斑尾高原にあり、夏はキャンプでにぎわったりしています。しかし、もともとこの池は、雪融け水や沢水を貯めておき、灌漑用水に利用するために造られた溜池です。

 斑尾大池の地に、溜池を造る計画は江戸時代からありました。一九世紀前半のことです。当時旧 豊田村 域を支配していた飯山藩は、四度、永江村へ築堤を命じました。水田を増やし、年貢の増収をはかるためでした。しかしそのつど、永江村では、不作で築堤の負担に耐えられないなどと陳情し、延期や中止にしてもらいました。

 明治後期〜大正期(一八九八〜一九二六)、 長野県 農業の中心は稲作と養蚕でした。明治三二年(一八九九)、政府は、耕地利用の増進をはかるために「耕地整理法」を公布しました。土地所有者が互いの土地を交換・分合し、農地の区画を大きくしたり、形を整えたりして農作業の効率を上げたり、灌漑・排水の便をよくするためでした。

 永田村( 中野市 豊田地区)では、同三七〜四一年にかけ数次にわたって許可をうけ、耕地整理事業をおこない、約二一一町歩を整理しました。あわせて灌漑用水確保のため、新たに九つの溜池を造りました。

この耕地整理事業によって、畑から水田への造成が進みました。そのため、溜池の新造にもかかわらず、約五〇町歩の水田が日照りの害をうける状態になりました。七月にはいっても田植えができず、集落間で水争いがおきたり、下流集落の人々が上流集落で水盗みをしたりしました。

このように、水利用をめぐって村内の平和が乱されることを、村の有識者たちは憂えました。その一人が大内梅多(村会議員)でした。梅多は、村内の灌漑用水の不足を解消するには、斑尾大池の築造しかないと考えました。明治四〇年代の初め、出ル水(涌井)集落八軒だけで築造しようとしました。しかし、工事資金が調達できませんでした。出ル水集落単独での築造を断念した梅多は、永田村の事業としておこなおうとし、村会議員として、村議会の場で斑尾大池築造を提案しました。しかし、穴田地区の議員の反対で否決されてしまいました。穴田地区(旧穴田村)は、斑尾大池築造による恩恵がほとんど見込まれなかったからです。

 そこで、梅多は、水野郡平・畠山輝一と相談し、斑尾大池築造の利益を共有できる永江地区(旧永江村)だけで、斑尾大池を造ろうということになりました。それから、梅多・郡平・輝一は、手分けして永江地区の家を一軒一軒訪ね、斑尾大池築造の必要性を説いてまわりました。永江地区すべての家から同意を得たのは、まわり始めてから一〇年後の大正一〇年(一九二一)でした。

 こうして準備を整えた梅多らは、永江地区全戸による会議を開催し、その場で斑尾大池築造が決議されました。同年一〇月、築造のための組合設立を県に申請し、同一二年に認可されました。そこで、高野末太郎を組合長に、畠山輝一・西沢宗平(後任は傳田清助)の二人を副組合長とし、大内梅多を会計係に、松本徳治郎・金子庄左衛門・高野安治・高野平治郎・遠山喜惣治・大内梅多・北澤仲三郎・松本豊作を評議員として築造工事に着手しました。

工事の中心は、水を堰きとめる堰堤(土手)を築くことでした。総工費約金三万二七七二円のうち、堤堰築立費が約金二万二四〇九円でした。まず、堰堤を築く部分に生えている草木を根から伐り取り、表面の土を約六寸(約二〇メートル)取り除きました。その後、堰堤のまん中にあたる部分を、約三メートルの幅で水を通さない赤土の層まで掘り下げ、搗き固めました。漏水により、堰堤が決壊するのを防ぐためでした。赤土を搗き固めた上には、良質の粘土を入れて、厚さ五寸(約一七メートル)ごとにドウヅキで念入りに三回以上搗き固めました。粘土の両側には、土を入れ、厚さ八寸(約二六メートル)ごとにドウヅキで二回以上搗き固めました。そして、順次横に移っていき、一段目がすべて終わると二段目に取りかかるというようにして、積み上げていきました。

工事はすべて、県の技師の指導のもとに、副委員長の畠山輝一と傳田清助が現場監督しておこなわれました。多いときは一日に約三五名が、近くの山の土を崩す、ネコ車で運ぶ、カメツキする、ドオヅキをする、ドバ板を使って土手の両側をたたいて固める、土手に芝をはるなどに分かれて作業をしました。それでも、一日八時間働いてできあがるのは、約二〇坪(畳四〇枚の広さ)でした。

 工事の途中で大事故が起きました。堰堤から水が噴き出して大きな穴があき、濁流が一気に流れ下り、親川地区の班川近くの家が危なかったりしました。役員の緊急会議が開かれ、二度とこのようなことが起こらないよう細心の注意を払うことを確認しました。すべて人力によるたいへんな作業だったので、他所から働きに来ていた若者二名が体をこわして亡くなったりしました。

工事資金が底をついてしまったため、会計係だった梅多が、自分の持ち山を売って資金を工面したこともありました。

こうして、高さ約四八尺(約一五メートル)、長さ約六二間(約一一三メートル)、底面の幅約四二間(約七七メートル)の堰堤が完成しました。満水面積約四町歩(約四メートル)、最大水深約四六尺(約一四メートル)、有効貯水量約七四二万立方尺(約一六万立方メートル)、灌漑面積二五六町歩(現在一八五メートル)の斑尾大池が出現したのです。

昭和三年(一九二八)一〇月二三日、多くの来賓の臨席を得て、竣工式が盛大におこなわれました。最後に万歳が三唱され、山谷に響き渡りました。

 現在、斑尾大池の管理は、同三一年に設立された永田土地改良区に引き継がれています。同改良区では、先人に感謝し、斑尾大池の水神祭りを毎年おこなっています。
斑尾大池溜池竣工記念碑(昭和22年建立)
水を払った、秋の斑尾大池(手前が堰堤)
斑尾大池竣工式(昭和3年)
左岸側から右岸側を望む
大内梅多保管の斑尾大池用水抜きの鍵(昭和8年まで使用)

二十五話

常盤村 の藺草栽培と畳表織り 

飯山市常盤地区の農家では、昭和四〇年代まで、 ( ) ( ぐさ ) 畳表 ( たたみおもて ) 茣蓙 ( ござ ) を織っていました。常盤小唄に「外は 吹雪 ( ふぶ ) くも ( うち ) なごやかに、 ( ぬし ) と二人で織る ( おもて ) 」とあります。この「表」が、「常盤表」ともよばれ、遠く長野方面でもよく売れた畳表なのです。 藺蓙 ( いざ ) 織りは、冬の副業の主流でした。

 今ではまったく見かけなくなりましたが、常盤の藺草栽培や茣蓙織りは、江戸時代までさかのぼります。伝承では、一七〇〇年ごろ、柳原の山口村(同市柳原地区)から柳新田(同市常盤地区)村に嫁いできた人が、藺草の栽培と ( むしろ ) の製法を伝えたといいます。柳原地区の山口に「山口畳表始祖碑」という石碑が建っています。外様村で生まれた郷土史研究の先達者、栗岩英治(一八七八〜一九四六)の揮毫です。 

江戸時代の常盤 田圃 ( たんぼ ) で、藺草栽培がどれくらい普及していたかは、わかっていません。ただ、一八三〇年ごろの戸隠新田の帳面に、「 ( ) ( ) 」という用語が見えるだけです。当時はまだ、水田をわずかに使った自給的な栽培だったと思われます。

明治時代には、飯山地方のあちこちで藺草が栽培されるようになりました。なかでも 常盤村 は、明治一九年(一八八六)に下水内郡内では最高の、畳表約二万枚の生産を誇りました。ついで柳原村と外様村が産地でした。

栽培方法は、四月上旬に田おこしをして、人糞を ( ) いてから藺草の苗を植え付け、八月中旬ごろに刈取るというものでした。当時の記録によれば、その間に大豆や 油粕 ( あぶらかす ) を施肥し、五回ほど雑草取りをしたといいます。

明治三〇年代(一八九七〜一九〇六)すぎから藺蓙織りは、手織りから足踏機(ハタゴ)に変わっていきました。ときの常盤村村長で、小沼の大熊直三郎(在職九年)が勧業に力をそそぎ、先進地の岡山県から足踏機を購入させたのが、きっかけでした。当時、岡山県は藺草の生産高が日本一でした。当地方のように座って織る手織りは、夜なべしても一日に一枚しか織れませんでしたが、足踏機導入により一日に二、三枚は織れるようになりました。畳表を織る縦糸は、自家製の 皮苧 ( かわお ) (麻)が使われていました。

柳新田の滝沢喜洋家に、明治三〇年の『畳表帳』があります。畳表は、二〇枚あるいは三〇枚の単位で出荷されています。「表三〇枚で二円四〇銭」とありますから、一枚織れば八銭になったのでしょう。当時、男の日雇賃は一五銭でした。正月から三月までに、四二円余りも稼ぎだしています。水害常襲地のこの村では、米よりも大事な現金収入だったと思われます。

常盤村での藺草の作付面積は、明治末年から昭和の前期まで、一〇から一七町歩、畳表の生産は五万から一〇万枚にも達しました。戦争中もかなりの農家で畳表が織られていたのです。戸隠の木内文寛家に残る昭和一五年(一九四〇)の『農事日誌』に、「五月一日、藺田の苗植え、七月二五日から藺草刈干し」とあり、戦時中の生産を裏づけています。ちなみに、 常盤村 のなかでも畑地がおもだった小沼では、藺草は栽培されず、冬の副業に ( ほうき ) を作っていました。

 戦後は、作付けや品種の改良が進みました。飯山雪害試験地の研究によって、一〇月下旬に秋植えし、翌年の初夏に収穫する栽培方法が成功し、昭和二八年から一般に奨励されるようになりました。ただ、雪どけが遅いと雪腐れをおこしたり、春から夏にかけての低温のために、刈り取りが遅れることもありました。したがって、秋植えをひかえる農家もありました。

 畳表の生産が本格化した昭和三〇年には、飯山畳表生産組合が結成されました。生産技術の向上と特産品化を大きな目標に掲げていました。生産者は飯山市内で四八〇名。品質や規格を統一していくために、地元の産地間で連絡を取り合うことにしました。柳原や外様のほかに、秋津・瑞穂・太田・岡山などの村も、小規模ながら藺草の産地でした。畳表の品評会や競売会も開かれるようになりました。

常盤生産組合では、昭和三二年から在来種の藺草苗をやめて、 ( ぶん ) けつが旺盛で耐久力のある「岡山三号」の採用を決めました。それに、藺草の 染土 ( せんど ) を兵庫県の 明石 ( あかし ) 市から取り寄せることにしました。常盤では、畳表に青色のツヤをだす手法として、長峯丘陵の青粘土を溶かした水に藺草をひたしていました。しかし、明石の染土を使って天日干しすると、ツヤが長いあいだ保てることがわかったのです。

 昭和三〇年代の藺蓙織りは、すべて電動の自動織機でおこなわれていました。個人専業の製造場で大量に織られるようになり、そこへ原料の藺草を提供するだけ、という農家もふえてきました。過剰生産による値段の下落。その一方で、合成繊維の畳表が普及するようになって、しだいに販売が押されていくようになりました。

昭和四〇年代には、このころ始まった圃場整備の影響もあって、藺草の栽培は急速に消えていきました。そこで、畳表の生産に主力をそそいでいた農家は、えのき茸の栽培へと経営を転換していったのです。

畳表帳
畳表の電動織機
柳新田の畳表共同作業場

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