宣      川

 北朝鮮の冬は寒い。新義州もそうだが、宣川でも1月から2月にかけての朝は零下20度くらいまで気温が下がる。雪はそんなに多くは降らなかったと思うが、道路のちょっとした水溜りはすぐかちかちに凍ってしまう。
宣川は新義州の南約80キロの場所にある町である。正式には宣川邑という。

 朝鮮では「市」は「府」、「町」は「邑」、「村」は「面」といい、その下の区分は「洞」である。

父が宣川公立普通学校(朝鮮人の為の小学校)に転任になったのは、昭和11年3月で、私も間もなく4才になろうとしていた。

 下の妹は宣川で生まれたが双子だった。戸籍簿の出生欄の記載は「朝鮮平安北道宣川郡宣川邑川南洞98番地」となっている。しかしそのうちの一人は生後10ヶ月で死んでしまった。母の話によるとイチゴを与えたのが原因だったそうだ。

 多分、日本人墓地に遺骨を埋葬しての帰りだったように記憶しているが、

 「可哀想なことをしたね」

と父と母が話しているのを聞きながら、その後ろをトボトボとついて歩いた。

 妹を失って悲しいという感情ではなく、月も星も出ていない暗い夜の山道を歩く淋しさに打ちひしがれていた幼時の思い出である。

 北朝鮮からの引き揚げの記録を題材にした藤原てい著「流れる星は生きている」の中で舞台になっているのが宣川である。新京(旧満州国の首都)から南へ逃げるために乗った列車が宣川駅でストップしてしまい、そのため宣川で1年間の避難民生活を送り日本へ引き揚げるまでの物語である。

 4才頃になると記憶も段々鮮明になって来る。市街地は京義線(新義州〜京城)の西側にあり、私の家は駅の改札を出て右に曲がり、数百メートルばかり歩いた、道路に面した場所であった。

 その道路は車が2台は並んで通ることが出来るくらいの幅があったように思うが、自動車などは滅多に通らず牛車が殆どだった。雨が降ったあとの水溜りに浮いていた油を、牛の糞だ、いや自動車からこぼれた油だといって近所の子供と言い争いをしたことがある。

 道路を横切ってしばらく行くと野原があり、その先には京義線の鉄道線路があった。

 貨物列車が待避線に停車しており、その位置が丁度我が家の正面あたりになっていたので見に行くと、陸軍の兵隊達が乗っており、白いエプロンに襷をかけた奥さん達の一団が湯茶の接待をしていた。

 今考えると昭和12年、日支事変が始まった頃のことである。

美しい町であった。教会の塔らしい洋館、学校か図書館のようにがっちりした建物、その下にきっちり並んだ人家は薄い朝霧の中に眠っている。四方山に囲まれた盆地の中に四角に置かれたようなこの町の中央をつらぬく一すじの川と、川を横切って山の間に消えている鉄道線路が妙に淋しい。」

 前述の「流れる星は生きている」の中に書かれている宣川の町の様子である。

 この川の北側が川北洞、南側が川南洞である。

 著者は最初、西側の山にある宣川農学校に収容されていたが、9月に入ってから町の南側の小高い丘の上の宣川神社の社務所に移動させられた。

 神社の建物は他の地区でもそうであったように朝鮮人によって焼かれてしまっていたが、社務所用の家屋は残されていたらしい。

 この宣川神社の北の、丘を下ったところに寺があり、その寺の住職が経営していた幼稚園に私と弟は通った。

 父が勤務していた宣川公立普通学校(朝鮮人の子供の小学校)は町外れの北側にあった。

 写真は宣川駅舎と宣川駅のプラットホームである(1992年訪朝時の撮影)。