定 州 編


                     昭和16年頃の定州市内図

 定州に住んでいたのは昭和16年8月(小学校3年生)から翌17年5月までの僅か10ヶ月ばかりであったが、昭和16年12月8日早朝に大東亜戦争開始のニュースをラジオで聴いたことなどを含め、さまざまな記憶がよみがえって来る。

 当時父が加納丘国民学校の校長だったので、校庭に隣接していた校長官舎に居住していた。

 下の写真2葉(新義州中学先輩の梶野誠次郎氏より頂いた)は加納丘をバックにして撮影された小学校校舎である。校舎右手の平屋建ての家屋が校長官舎、また校舎一階右側の部屋が職員室である。
 この校舎の反対側(正門側)は中庭になっており、渡り廊下で小講堂、理科実験室等のある校舎と繋がっていた。
 

まだ10歳に満たない年齢であったから生活範囲は家の周辺に限られてしまう。校舎に面している加納丘が主な遊び場であった。

 加納丘は、日露戦争当時、この地で奮戦した加納中尉に因んで名付けられたとのことで忠魂碑があった。東側の斜面には生い茂った草木の中に古寺らしきものがあったが、地図で調べてみると孔子廟である。

 左の写真は、1995年、自動車で定州街道を通過の際、撮影した加納丘。忠魂碑はもちろん撤去されてしまったと思う。アパートらしきものが建っている。この裏側に校庭がある筈。

       旧定州駅(梶野誠次郎氏提供)          1995年撮影の定州駅(梶野誠次郎氏)



1995年、定州市内の街道を通過時の写真
   (梶野誠次郎氏撮影)






現在の定州地図
    (梶野誠次郎氏より)