明治20年(1887)7月、長兄、次兄の二人が相次いで病死したので、三兄の和三郎直矩が夏目家の家督を相続し、9月に妻を迎えたが3ヶ月で離婚。翌明治21年に2番目の妻として登世と結婚した。
漱石は同じ年の1月に塩原家から籍を抜いて正式に夏目家に復籍、9月には第一高等学校本科第1部(文科)に進学、それまでの下宿生活から自宅に戻った。
明治23年(1890)9月、帝国大学文科大学英文科に入学、明治26年(1893)7月に卒業している。
登世と漱石は同じ年齢で、しかも同じ家の中で生活していたので、この二人の間には恋愛感情よりも更に進んだ不倫関係が存在したのではないかというのが江藤説である。以下「夏目漱石ー登世という名の嫂」(江藤淳)の中で関係ある部分を抜粋要約してみたい(文中青字は漱石の書簡文を示す)。
明治22年(1889)9月20日付正岡子規あての手紙に登世に対する恋心の傾きが暗示されているとして次の詩をあげている。
「・・・・・・五絶一首小生の近況に御座候御憫笑可被下候
剣を抱いて竜鳴を聴き 書を読んで儒生を罵る 如今空しく高逸 夢に入るは美人の声
第1句は成童の折の事二句は十六七の時転結は即今の有様に御座候・・・・・・・・」
この中の「美人」とは嫂の登世であることはほとんど疑う余地がないと断言している。 |
漱石が恋愛していることを暗示する証拠がはじめてあらわれるのは、明治23年(1890)8月9日付正岡子規にあてた手紙であるとして次の一行をあげ
「只煩悩の焔熾にして甘露の法雨待てども来らず欲海の波険にして何日彼岸に達すべしとも思はれず」
の一節を見れば、憂鬱の霧の中に恋愛が隠されており、しかもそれが性の衝動をともなった恋であるということは否定しがたいものと思われると再び断言している。 |
明治24年8月3日付正岡子規あての手紙の中から嫂の死を報じた部分をとりあげ、読者に不倫の事実が確実であるかのような印象を与えている。
「・・・・子は闇より闇へ母は浮世の夢二十五年を見越して冥土へまかり候」などという語調にはほとんど父親の哀惜を思わせる感情がこめられておると感じとり
「そは夫に対する妻として完全無欠と申す義には無之候へ共」や、「一片の精魂もし宇宙に存するものならば、二世と契りし夫の傍らか、平生親しみ暮せし義弟の影に髣髴たらんか・・・・・・」には三角関係の自覚が暗示されているという理解をしている。
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