夏目漱石の恋人説とその背景

夏目漱石の経歴と恋人説
(1)日根野れん(石川悌二説)
 夏目漱石は慶応3年(1867)2月9日、現在の東京都新宿区喜久井町1番地で生まれた(本名金之助)。生後間もなく里子に出され、しばらくして戻されたが、明治元年(1868)11月、塩原昌之助、やす夫婦の養子となった。

 
明治7年(1874)、養父の昌之助が未亡人の日根野かつ”と不義な関係になったため夫婦の間でいざこざが絶えず、その結果養母やすと一緒に一時夏目家に引き取られた。(注
 同年、塩原家は新宿から浅草に引っ越したので、漱石は浅草の小学校に入学(現在とは学制が違う)。この間に
やすは離縁となり、昌之助日根野かつとその連れ子のれんと生活を始め、漱石も養父のもとへ帰ることになった。

 漱石の父
直克塩原昌之助の後見人のような立場にあったらしく、就職の斡旋をしたこともあったようである。
 結局、漱石は明治7年の暮れから明治9年の5月頃までの間、
日根野かつの連れ子のれんと同じ家に住み、また小学校に通ったものと思われるが詳細は不明である。は漱石より一才年上だが非常な美人だったということである。

 明治9年(1876)の11月頃、
直克昌之助昌之助の就職問題をめぐって大喧嘩をし、怒った直克は籍はそのままで漱石を自分のところへ引き取ってしまった。
 しかし漱石はそのあともしばしば塩原家へ出入りしており、その時
れんとどのような交際があったのかは分からない。ただ昌之助が自分の老後の生活の安定のためには、漱石とれんの二人が結婚してくれれば好都合だと考えていた節があり、漱石も無意識のうちにれんが許婚者であるという気持ちを抱いていたかもしれないと想像することは可能である。

 明治12年(1879)、13才のとき東京府第一中学校(現日比谷高校)に入学した。どのような事情があったのか、この第一中学校を中退、その後二松学舎、成立学舎を経て、明治17年(1884)、18才のとき東京大学予備門予科(明治19年、第一高等中学校と改名)に入学した。
 この間、明治14年に母親の
ちゑが死去している。

 明治19年(1886)、漱石(20才)は成績不良のため進級することが出来なかった。一方れんは職業軍人の陸軍中尉平岡周造と結婚(内縁関係)したが、勉強好きで結婚生活をしながら高等女学校(現御茶ノ水大学の前身)を卒業したという。結婚後は夫の任地にしたがって東京を離れたが、再び東京に戻った時に偶然井上眼科病院で漱石と再会したということになっている。しかしこれは論者(石川悌二)の推論である。

 れんが結婚したために漱石は厭世家となり、その悩みを正岡子規に書き送ったりしている。またれんとの再会後も自分の恋を打ち明けることが出来ず煩悶のうちに松山行きとなった。

 れんは明治41年6月2日に死亡したが、その直後に書かれたた作品には「文鳥ー五」、「永日小品」の中の「心」などがあり、その他漱石とれんとの交渉を窺わせるものとして「一夜」、「それから」、「門」、「道草」、「彼岸過迄」、「趣味の遺伝」等が挙げられている。

○ 以上のような論を念頭においてそれらを読んでみるとそれなりの説得性があるようにも思われる。



 昌之が日根野かつと不義の関係になったため、毎晩夫婦喧嘩が絶えず云々・・・・・・・というのは、「道草」の中の記述から一般にはそのように受け取られているが、一方、日根野かつ本人の話はこれとは違っている。

 関 荘一郎 「『道草』のモデルと語る記」より
 「・・・・・私が後家でゐる時分にお爺さんと関係が出来て、それがもとで先妻のやす子(小説ではお常としてある)が離別されたり、また私が連子で塩原家へ乗り込んで来たり、そのごたごたのために金ちゃんが夏目へかへされたり、私の連子をお爺さんは金ちゃんと嫁せたいと企んだり、私は金チャンの兄へ嫁せたいと内々運動したりしたと云ふ、そんな種(いろん)なことを然も真個(ほんと)らしくかいてあるけれど、これなども真紅な嘘で、まったく金之助の作ですよ。かふ見えても私は立派な媒介人にすゝめられて嫁附いたので、何も色の恋のとそんな浮いた事実では毛頭ありません。・・・・」
井上眼科病院 漱石の失恋説が出るときに必ず引き合いに出されるのが、明治24年(1891)7月18日付けで正岡子規に出した書簡の文章である。
 
「・・・・・・・・・・・・・・ゑゝともう何か書く事はないかしら、あゝそうそう、昨日眼医者へいった所が、いつか君に話した可愛らしい女の子を見たね、―銀杏返しに竹なはをかけて―天気予報なしの突然の邂逅だからひやつと驚いて思はず顔に紅葉を散らしたね丸で夕日に映ずる嵐山の大火の如し・・・・・・・・

 この中に書かれている可愛らしい女の子が誰であるのか不明のため、議論が複雑になっている面もある。

                                                                             

(この項 (1)日根野れん(石川悌二説))