吾輩は猫である
「吾輩は猫である」は夏目漱石の出世作となった作品であるが、この作品が書かれた状況はその後の多くの作品とは異なっていて、ある意味では偶然のチャンスに何となく書いたものが評判を呼び、それがきっかけで作家夏目漱石が誕生したということが出来る。 「私の処女作ーと言へば先づ『猫』だらうが、別に追懐する程のこともないやうだ。たヾ偶然あヽいふものが出来たので、私がさういふ時期に達して居たといふまでである。 といふのが、もともと私には何をしなければならぬといふことがなかった。勿論生きて居るから何かしなければならぬ。する以上は自己の存在を確実にし、此処に個人があるといふことを他にも知らせなければならぬ位の了見は常人と同じ様に持ってゐたかも知れぬ。けれども創作の方面で自己を発揮しやうとは、創作をやる前迄も別段考へてゐなかった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さて正岡子規とは元からの友人であったので、私が倫敦に居る時正岡に下宿で閉口した模様を手紙に書いて送ると、正岡はそれを『ホトトギス』に載せた。『ホトトギス』とは元から関係があったが、それが近因で私が日本に帰った時(正岡はもう死んで居た)編集者の虚子から何か書いて呉れないかと嘱まれたので始めて『吾輩は猫である』といふのを書いた。所が虚子がそれを読んで、これは不可ませんと云ふ。訳を聞いて見ると段々ある。今は丸で忘れて仕舞ったが、兎に角尤もだと思って書き直した。 今度は虚子が大いに褒めてそれを『ホトトギス』に載せたが、実はそれ一回きりのつもりだったのだ。ところが虚子が面白いから続きを書けといふので、だんだん書いて居るうちにあんなに長くなって了つた。といふやうな訳だから、私はたヾ偶然そんなものを書いたといふだけで、別に当時の文壇に対してどうかういふ考も何もなかった。たヾ書きたいから書き、作りたいから作ったまでヾ、つまり言へば私があヽいふ時期に達して居たのである。もっとも書き初めた時と、終わる時分とは余程考が違って居た。文体なども人を真似るのがいやだったからあんな風にやって見たに過ぎない。・・・・・・」 処女作追懐談(『文章世界』三巻十二号、明治41年9月15日) 上の談話にみられるように、「猫」を書くに際しては、初めの方の数章は特別な構想とかテーマを持って臨んでだのではないことが見てとれるから、その結果として、漱石の潜在意識として長い間沈潜していた思考、感情等が所を得て一気に流出したものであると見ることが出来るであろう。 漱石文学の後半のものには男女の三角関係から生じる苦悩と、それに対する反省乃至は後悔の感情等をテーマとして、精細緻密に構想を組み立てて執筆したと考えられる作品が多いが、初期の作品、中でも「吾輩は猫である」は思いつくままに、身辺の雑事を諧謔と風刺、笑い等を混じえて綴ったものであるとし考えてていいだろう。 したがって、もし漱石に恋人があったと仮定して、あえてそれらを作品人物の中から推定しようとするならば、上記の理由によって、気ままな筆致で創り出された初期の作品の中に求めるのが妥当ではないかと思う。 このような意味合いから、邪道かもしれないが、初期の作品である、「吾輩は猫である」、「坊ちゃん」、「三四郎」などの記述の中に、漱石も当然経験したであろう初恋あるいは恋愛体験ともいうべきものの片鱗を見出すことが出来るのかどうかを念頭に置いて読み進めてみることにする。 |
三毛子訪問 |
![]() |
★第1章は、生まれて直ぐ捨てられた猫が、主人(苦沙弥という名前は第3章になってやっと出て来る)の家に住みつくに至った経緯や、主人の職業が教師であること、この主人は多趣味で俳句や新体誌を作ったり、弓、謡、ヴアイオリンを習ったりしているが、どれもこれもものになっていないなどの状況説明等で始まる。 そして主人は現在は水彩画に凝っているが、ある日、金縁の眼鏡をかけた美学者の友人(迷亭も次の章で初めて明らかになる)がやって来て主人をからかう。 吾輩は主人の家の中で生ずる事件を観察しながら、近所の車屋に飼われている黒と知り合いになる。 いずれにしても吾輩は主人の家で生涯を無名のままで過ごそうというところで第1章は終っているが、格別に取り立てるべきものはない。 ★一回きりで終わるつもりが、評判が良いので回を重ねることになったのは前述のとおりでありであるが、どうやら第2章あたりから自身の原体験を変調して表現しようとしている気配があるように感じられる。 |
美学者に続いての登場人物は主人の教え子という理学士水島寒月君である。そして次のような会話が始まる。 |
「・・・・『ヴァイオリンが3挺とピヤノの伴奏で中々面白かったです。ヴァイオリンも3挺くらいになると下手でも聞かれるものですね。二人は女で私がその中へもまじりましたが、自分でも善く弾けたと思いました』 『ふん、そしてその女というのは何者かね』 と主人は羨ましそうに問いかける。元来主人は平常古木寒巌の様な顔付はしているものの実のところは決して婦人に冷淡な方ではない、嘗て西洋の或る小説を読んだら、その中にある一人物が出て来て、それが大抵の婦人には必ずちょっと惚れる。勘定をして見ると往来を通る婦人の七割弱には恋着するという事が風刺的に書いてあったのを見て、これは真理だと感心した位な男である。そんな浮気な男が何故牡蠣的生涯を送っているかと云うのは吾輩猫などには到底分からない。或人は失恋の為だとも云うし、或人は胃弱のせいだとも云うし、又或人は金がなくて臆病な性質だからだとも云う。・・・・・・・・・・・・・」 ここに出て来た「失恋の為」という文字も何気なく見過ごしてしまえばそれまでのことかも知れないが、考え様によっては意味深長ではないかという気もする。 このヴァイオリンの話は、後に金田富子嬢と寒月君との結婚話が出て来る話の伏線になっている。 このあと、吾輩である猫は雑煮をかじって大失敗をやらかしたので 「こんな失敗をした時には内にいて御三なんぞに顔を見られるのも何となくばつが悪い。いっその事気を易えて新道の二弦琴の御師匠さんのとこの三毛子でも訪問し様と台所から裏へ出た。三毛子はこの近辺で有名な美貌家である。吾輩は猫には相違ないが物の情けは一通り心得ている。うちで主人の苦い顔を見たり、御三の険突を食って気分が勝れん時は必ずこの異性の朋友の許を訪問して色々な話をする。すると、いつの間にか心が晴々して今までの心配も苦労も何もかも忘れて、生まれ変った様な心持になる。女性の影響というものは実に莫大なものだ。・・・・・・・」 漱石は、明治7年の暮れから明治9年の5月頃までの約1年半、日根野かつの連れ子れんと、同じ家に住んで小学校に通ったとされているが、いずれにしても塩原姓のまま、夏目家に引き取られた。しかしその間、しばしば養父塩原昌之助の家に出入りしており(前出ー漱石の恋人説考)、その際、幼友達のれんとは親しい付き合いがあったと考えられるので、その訪問を三毛子に擬して表現したと想像することが出来ると思われる。 この間の事情は「道草」の次の文からもうかがうことが出来る。「道草」は漱石の自伝ではないにしても、自伝的色彩の濃い内容の作品である。 「『御縫さんて人はよっぽど容色が好いんですか』 『何故』 『だって貴夫の御嫁にするって話があったんださうじゃありませんか』 成程そんな話もないことはなかった。健三がまだ十五六の時分、ある友達を往来へ待たせて置いて、自分一人一寸島田の家へ寄らうとした時、偶然門前の泥溝に掛けた小橋の上に立って往来を眺めてゐた御縫さんは、一寸微笑しながら出会頭の健三に会釈した。それを目撃した彼の友達は独乙語を習い始めの子供であったので、『フラウ門に倚って待つ』と云って彼をひやかした。然し御縫さんは年歯からいふと彼より一つ上であった。其上その頃の健三は、女に対する美醜の鑑別もなければ好悪も有たなかった。夫から羞恥に似たやうな一種妙な情緒があって、女に近寄りたがる彼を、自然の力で、護謨球のやうに、却って女から弾き飛ばした。彼と御縫さんとの結婚は、他に面倒のあるなしを差措、到底物にならないものとして放棄されてしまった。」(道草」22よりー注) ここで云う御縫さんとはれんのことである。 この他、「文鳥」(前出)にも、漱石の少年時代、れんとの間に何らかの接触があったことを窺わせる文が書かれている。 このあと何度か吾輩は三毛子のところへ出掛けるのだが、、ある日次のような会話を耳にする。 |
![]() |
「『風邪を引くといっても余り出歩きもしない様だったに・・・・・』 『いえね、あなた、それが近頃は悪い友達が出来ましてね』 下女は国事の秘密でも語る時の様に大得意である。 『悪い友達?』 『ええあの表通りの教師のとこにいる薄汚い雄猫で御座いますよ』・・・・・・・・ 『あんな主人を持っている猫だから、どうせ野良猫さ、今度来たら少し叩いて御遣り』 『叩いて槍ますとも、三毛の病気になったのも全くあいつのお陰に相違御座いませんもの、きっとかたきをとってやります』 飛んだ冤罪を蒙ったものだ。こいつは滅多に近寄れないと三毛子にはとうとう逢わずに帰った。」 実際に、漱石がれんと逢うのを快く思わなかった人物がいたのかどうか、同じく「道草」の中の次の文を見ることが出来る。 「兄の名前を見た時、健三の頭に不図又御縫さんの影が差した。島田が彼と此女を一所にして、後まで両家の関係をつながうとした如く、此女の生母はまた彼の兄と自分の娘とを夫婦にしたいやうな希望を有ってゐたらしかったのである。」 |
養父とその情婦かつとの間でれんをどちらに嫁がせたら良いのかの思惑の違いがあり、かつにしてみれば健三(漱石)の兄と夫婦にした方が自分達の利益になると考えた。そのため漱石が塩原家を訪問する度に邪険に扱われた。このような状況が漱石の記憶の中に残っており、上記のような形となって現れたと考える事が出来るかも知れない。 このあと三毛子は風邪がもとで死んでしまうということになっているのは少々奇異な感じがする。れんが死亡したのは、「猫」執筆約2年半後の明治41年(1908)である。 |
★注 この件については「『道草』のモデルと語る」(関 荘一郎)では次のようになっている。 「・・・・・私の連子をお爺さんは金ちゃんと嫁せたいと企んだり、私は金ちゃんの兄へ嫁せたいと内々運動したりと云ふ、そんな種(いろん)な事を然も真個(ほんと)らしくかいてあるけれど、これなども真紅な嘘で、まったく金之助の作ですよ。・・・・・・・・・・又娘のれん子(小説にはお縫とある)には、その時分比根野と云ふ軍人の許嫁があったから、それを金ちゃんにくっつけ様などと思ふわけもないじゃありませんか。・・・・・・・」 |
寒月の結婚 |
寒月が結婚するしないの話題は、正月になってしばらく経ったある日、寒月が主人、迷亭を前にして次のような話をするところから始まる。 「其日は向島の知人の家で忘年会兼合奏会がありまして、私もそれへヴァイオリンを携えて行きました。十五六人令嬢やら令夫人が集まって中々盛会で近来の快事と思ふ位に万事が整って居ました。晩餐も済み合奏も済んで四方の話しが出て時刻も大分遅くなったから、もう暇乞いをして帰らうからと思って居ますと、某博士夫人が私のそばへ来てあなたは〇〇子さんの御病気を御承知ですかと小声で聞きますので、実は両三日に逢った時は平常の通り何所も悪ひ様には見受けませんでしたから、私も驚いて精しく様子を聞いて見ますと、私の逢った其晩から急に発熱して、色々譫語を絶間口走るさうで、其れ丈なら宜いですが其のうちに私の名が時々出て来るといふのです・・・・・・・・」 その帰りがけに吾妻橋を通りかかったら川の水底から〇〇子さんの呼び声が聞こえたような気がしたので、欄干の上から飛び込んだらそこは水の中ではなくて、橋の木の上であった云々である。 |
![]() |
この描写については寺田寅彦の「夏目漱石先生の追憶」の中で次のように書かれている。 |
「自分が学校で古いフィロソフィカル・マガジンを見て居たらレヴェレンド・ハウトンといふ人の、『首吊りの力学』を論じた珍しい論文が見付かったので先生に報告したら、それは面白いから見せろといふので学校から借りて来て用立てた。それが『猫』の寒月君の講演にになって現れて居る。高等学校時代に数学の得意であった先生は、かふいふものを読んでもちゃんと理解するだけの素養を持って居たのである。文学者には異例であらうと思ふ。 高浜、坂本、寒川諸氏と先生と自分で神田連雀町の鶏肉屋へ飯を食ひに行った時、須田町辺を歩きながら寒川氏が話した、或る変わり者の新聞記者の身投げの場面が矢張り『猫』の一節に現れて居るのである。・・・・・」 (昭和7年10月17日) |
「猫」の中の〇〇子さんというのは主人の家の近所に住む実業家金田の娘「富子」のことであるが、富子の母親が主人の家に来て寒月の身元や将来の見通しについて色々と質問する。このあたりのやり取りは読んでいて思わず吹き出したくなってしまうほど面白いが、寒月の結婚に関する話の進行は、次の様になっている。 「・・・金田の妻といふ女が君の事を聞きに来たよ』 と主人が真面目に説明してやる。驚くか、嬉しがるか、恥づかしがるかと寒月君の様子を窺がって見ると別段の事もない。例の通り静かな調子で 『どうか私に、あの娘を貰って呉れと云ふ依頼なんでせう』と、又紫の紐をひねくる。・・・・・」 このあと、最終的には富子と結婚することになる同じく主人の弟子の多々良三平を登場させる。そして寒月の博士論文の研究題目は「蛙の眼球の電動作用に対する紫外線の影響」と言う真面目ともふざけたともつかないような内容となり、最終的には 「『博士ですか、エヘヽヽヽ。博士ならもうならなくってもいゝんです』 『でも結婚が延びて、双方こまるだろう』 『結婚つて誰の結婚です』 『君のさ』 『私が誰と結婚するんです』 『金田の令嬢さ』 『へえゝ』 『へえつて、あれ程約束があるじゃないか』 『約束なんか、ありゃしません。そんな事を言い触らすなあ、向ふの勝手です』 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『元来いつどこで結婚したんだ』 と主人は予審判事見た様な質問をかける。 『いつって、国へ帰ったら、ちゃんと、うちで待ってたのです。今日先生の所へ持って来た、此鰹節は結婚祝に親戚から貰ったんです』 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『金田の方へは断ったかい』 『いゝえ。断はる訳がありません。私の方でくれとも、貰いたいとも、先方へ申し込んだ事はありませんから、黙って居れば沢山です。・・・・・・・・・』 と言う事で、詳しい事情の説明なしに結婚の話題を終結させてしまっている。 多々良三平君が現れて、 『あなたが寒月さんですか。博士にゃ、とうとうならんですか。貴方が博士にならんものだから、私が貰ふ事にしました』 『博士をですか』 『いゝえ、金田家の令嬢をです。実は御気の毒と思ふたですたい。然し先方で是非貰ふてくれと云ふから、とうとう貰ふ事に極めました、先生。然し寒月さんに義理がわるいと思って心配して居ます』 『どうか御遠慮なく』 と寒月君が云ふと、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 |
以上の通り、寒月の結婚に関する話は、曖昧な内容、結末となっている。 さらに当面の間、寒月君の結婚の対象になっていた富子についての、吾輩である猫を借りての観察が好意的でない。 「折柄廊下を近く足音がして障子を開ける音がする。誰か来たなと一生懸命に聞いて居ると 『御嬢様、旦那様と奥様が呼んで入らっしゃいます』 と小間使らしい声がする。『知らないよ』 と令嬢は剣突を喰はせる。『一寸用があるから嬢を呼んで来いと仰つしゃいました』 『うるさいね、知らないてば』 と令嬢は第二の剣突を喰はせる。『・・・・・・・水島寒月さんの事で御用があるんださうで御座います』 と小間使は気を利かして機嫌を直さうとする。『寒月でも、水月でも知らないんだよー大嫌いだわ、糸瓜が戸惑いをした様な顔をして』 第三の剣突は、憐れなる寒月君が、留守中に頂戴する。・・・・・・・・・・・・」 少なくとも、これらからは上品で気品のある令嬢像は浮かんで来ない。 漱石自身に、どの程度の見合い、乃至は縁談話の経験があったのか勿論分からないが(鏡子夫人との見合いを除いて)、ここで考えられるのは、「恋人説」の中の大塚楠緒子との見合いの件である。実際に小屋保治と同列の程度において漱石が大塚家の選択範囲の対象であったか否かは別にしても、少なくとも漱石自身は見合い経験をしたと思い込んでいたという事は考えられ、それが寒月の結婚という形で「猫」の中に表出されたとしてもいいのではないかとも思う。 また寒月君の結婚に関する話題の内容や富子に関する記述は、三毛子についてのそれらと比べると、かなり冷淡で素っ気ない扱い方である。 筆の進むままに書かれた作品であるということを思うと、少年時代のれんとの交際、また他の女との恋愛関係があったとしても、それらはいずれも深刻な結果をもたらさなかった故に、綿密な構想を立てることなしに淡々として作品の題材とする事が出来たのではないだろうか。 漱石の初期作品では、最後のところで、何らの説明なしに突然別の結婚相手が現れるという状況設定がされている。 これらについては、次に「坊ちゃん」 「三四郎」 などで検討してみたい。 |
(この項 吾輩は猫である) |