(3)大塚楠緒子(小坂晋説) |
漱石は明治26年(1893)7月に帝国大学文科大学英文科を卒業したが、その間、帝国大学寄宿舎々監清水彦五郎の斡旋で友人の小屋保治と共に宮城控訴院々長大塚正男の一人娘大塚楠緒子の婿候補に挙げられていた。 これに対してどのようないきさつがあったのか不明であるが、友人の小屋保治は8月に楠緒子と見合いをし、明治28年(1895)1月に結婚入籍して、大塚保治と改姓した(披露宴には漱石も出席している)。 仮に漱石が失恋したとして、それがどのようなものであったのかは別にして楠緒子と二人との間の関係の始まりを示す手紙が残されている。
一方、漱石の方はこれも詳細は分からないが、楠緒子の美貌に心を奪われ、小屋と争う形になったことが想像されるのであるが、翌明治27年7月、伊香保温泉に行き、そこから小屋を呼び寄せて話し合いの結果、身を引いた形になったのではないかと論者は推定している。
楠緒子は虚栄心が強く、女王的性格の女で二人に向かってその一人にだけ意があるように見せかけてあやつっていた。そのため二人とも楠緒子と結婚出来ると思っていたが、いざ蓋をあけてみると選ばれたのは漱石ではなくて小屋の方であった。 この時の漱石の失望と苦悩は大きく漱石の心に一生消えない傷跡となって残った。後年、モチーフとして男女の三角関係を好んで題材に選び当事者の心理的葛藤を執拗に追求したことにその現れがあるとする。 これより前の明治22年8月、第一高等中学校の学生であった23才の時、兄夏目直矩の病気療養のために興津に滞在したことがあり、少女時代の楠緒子と会っていた可能性もあるという。当時興津は東京在住の上流階級の避暑地だったので楠緒子も母と一緒に避暑に出かけており、海岸縁で画を描いたり、森の中を散歩している。 「三四郎」の中の広田先生が夢の中で20年前の初恋の人に会ったという話は、その時の体験であり、さらに森文部大臣の葬儀を見送った時、その葬列の中にいた少女を見たというのも楠緒子ではないかとする。 楠緒子は明治8年に生まれた。恵まれた環境にあっての文学少女で明治23年、15才の時、佐々木信綱に入門、和歌を学んでいる。結婚してからは盛んに小説を発表、漱石がイギリス留学から帰国してからは漱石家に出入りして教えを受けており、また漱石の推薦で朝日新聞に作品を発表してもいる。主に活躍したのは明治40年から43年の間で、英語、ピアノ、絵画等を学びまさに才色兼備の人のようであったと云われていた。 このような楠緒子が自分の理想の人であったと常々考えていたようだとは漱石に師事していた弟子達の一致した見方であったと言うのも、楠緒子恋人説のひとつの理由になっているようである。 漱石と楠緒子との間で相聞歌的に作品を発表しあっているという論がこのあと展開されているが、それは個々の作品についての時に触れることにしたい。 |
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