夏目漱石の恋人説とその背景


(2)大塚楠緒子との関係

 前項(3)で大塚楠緒子が漱石の失恋相手であるとする小坂説を紹介したが、弟子達の間でもそうではないかという感じていた人がいたようである。

 漱石、楠緒子、それと夫の大塚(旧姓小屋)保治の3人の間にどのような交友関係があったのかというところから検討しなければならない(即ち漱石と楠緒子が何時の時点でお互いに知り合ったかということである)。

 前述のとおり漱石は明治26(1893)年7月に東京帝国大学文科大学を卒業し大学院に進んだ。そして同年7月頃から10月半ばまでの3ヶ月間寄宿舎に居住したようである。このとき同様にこの寄宿舎にいたのが大塚(小屋)保治であり、それ以来交友が始まったと考えられる。楠緒子と保治は8月に見合いをし翌々年(明治28年)の3月に結婚式を挙げている。学生時代の交渉についての大塚保治の回想文がある。

 「
自分は夏目君の性格や思想なぞを知っている点で、恐らく随一だらうとは信じてゐるが、学生時代の夏目君と云はれると、同君の性向を躍如とさせるやうなインシデントが記憶に残ってゐない。さう云ふものは却って、大学卒業後暫らく一緒の家にいた菅寅雄君とか、同級だった狩野享吉君なぞの方が詳しく知ってゐる筈である。
 初めて夏目君と相識ったのは、自分が卒業して、大学院にゐる時であった。同君は確か自分より二年下だったと思ふ。兎に角自分が大学院にゐて、寄宿舎にゐる時、夏目君も入舎して来た。その頃の文科生は数も少なく、寄宿舎でも二三室を占領してゐるだけだったから、夏目君とは同室になった事もあり、又向かひの室に居たこともある。
 其時
分話がよく合ったのは覚えてゐるが、果たしてどんな問題を喋り合ったものかは、も記憶にない。唯同君の学生時代の態度も、後の夏目君と異なりがなく、・・・・・・・・・・・・・学生時代の事と云へば、先づそんな処である。・・・・・・・・・・・・・・・
」  
                     「学生時代の夏目君」(大正6(1917)年1月)

 漱石没後の回想談であるが、これによれば大学生らしく種々語り合ったが其の内容は詳しく記憶していないということになる。

 一方、漱石の側からはどうであったか。

 明治26年7月26日付、斉藤阿具宛
 「
・・・・・・・・小屋君は其後何等の報知も無之同氏宿所は静岡県駿州興津清見寺と申す寺院に御座候・・・・・・・

 明治27年7月25日付、小屋保治宛(伊香保よりー前出)・・・話したいことが有るから来て欲しいという趣旨の手紙

 明治27年10月16日付、小屋保治宛
 「
遊子標蕩の末遂に蠕袋を此所に葬り了り申候 御閑暇の説は御来会可被下候
                  小石川表町七十三番地法蔵院にて 夏目金之助


 明治29年7月28日付、大塚保治宛(ドイツ留学中)
 「
・・・・・先日は独乙着の御手紙正に拝受仕候愈御清適御勉学の御模様結構のことに存候国家の為め御奮励有之度切に希望仕候・・・・・・

 回想風のものは、前出した明治39年1月9日付、森田草平宛の大塚が美人(楠緒子のこと)に惚れられた事を吹聴されて羨ましかったという書簡である。

 以上の資料からみる限りでは、大塚保治の学生時代の「漱石のことはよく知らない」と云う言に若干の秘匿性を感ずるものの、楠緒子を含めての深刻な三角関係があったということなど想像することさえ出来ない。

 明治28年3月に行われた大塚夫妻の結婚式に出席した後、4月松山に赴任している。

 また楠緒子と漱石との間の交渉を示す書簡もあるが、それは漱石が「猫」で一躍有名になった後、楠緒子の小説を新聞社に紹介することになり、以降楠緒子が弟子のような形で漱石と接触するようになったものと考えられる。
 (言われる様な深刻な恋愛関係が学生時代に二人の間に存在し、手紙の交換があったとしてもそれは永久に出ては来ないであろう。)

 明治37年6月3日、野村伝四宛
 「
・・・・・・太陽にある大塚夫人の戦争の新体詩を見よ、無学の老卒が一杯機嫌で作れる阿呆陀羅経のごとしおんなのくせによせばい丶のに、それを思ふと僕の従軍行杯はうまいものだ・・・・・・・・・・

 明治38年4月7日付、大塚保治宛
 「
猫の画は中々うまい。あれは細君の代作だろう。
 猫の顔や骨格や姿勢はうまいが。色がまづい。頭の周囲にある模様見た様なものも妙だな。
 僕も画葉書を書いて奥さんを驚かせやうと思ふがひまがないからやめ。・・・・・・・・


 明治39年3月3日付、野村伝四宛
 「
大塚楠緒子作 筆が器用に出来て居る。苦(原)る文章を考へたものであります。思ひつきもわるくありません。あの人の作としては上乗であります。三小説のうちの傑作である。

 明治40年7月12日付、大塚楠緒子宛
 「
拝啓 一寸出る筈ですが出ると長くなって御邪魔になりますから手紙で用を弁じます
 あなたの万朝へ御書きになったものを岡田さんの方が先へ出るとすればあまる事だらうと思ひまして朝日の方へ話しをしたらもし五十回以上百回位迄のものなら頂戴は出来まいかと申して来ました是は虞美人草のあとへ四迷先生の短いものを出して其次に出す計画の由です
 万朝の方が御都合がつけばこちらへ廻してくださいませんか 以上


 明治40年7月19日付、大塚楠緒子宛
 「
拝啓金尾文淵堂であなたの万朝に出る小説を頂いて本にしたいと申ます夫でひ此男があなた{に}紹介してくれと申ます御迷惑でなければ一寸逢ってやって下さい 以上

 明治41年2月29日付、大塚楠緒子宛   小説の原稿についての件である。

 明治41年5月11日付、大塚楠緒子宛
 「
一週間に一辺手紙をよこせとか云って無花果を半分づつ食ふ所がありましたね。あすこが面白い。今迄ノウチデ一番ヨカッタ

 明治41年5月15日付、大塚楠緒子宛   小説の執筆についての打合せ

 明治42年4月3日付、大塚保治宛
 「
・・・・・・・先達て奥さんが御出の節文学評論が一部欲しいと仰しゃったさうだがもし別に今一部御入用なら、まだ二三部あるから夫を献上してもいい。然し君にあげれば大抵よかろうと思って一部にして置いた。よろしく

 明治42年7月7日付,大塚保治宛
 「
文学評論を通読して呉れて寔に難有い。其上わざわざ批評を書いて貰って済まない。大変に過重な褒辞を得て少々辟易するが矢張り嬉しい。それから悪い所をもっと色々指摘してもらいたかった。もっと無遠慮に僕の参考になる様に云ってくれると猶よかった。がそれは忙しい君に望むのは僕の方の無理かも知れない。・・・・・・・・・
 君の所に御産があった様に聞く。奥さんも赤坊も御壮健ならん事を祈る。・・・・・・・・・
・」

 明治43年3月16日付、大塚楠緒子宛
 「
先日は御光来の処何の風情も無失礼致候其節御話の・・・・・・・・・・

 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」 (昭和7年10月17日)
 「
・・・・・・・・何時だったか、先生が何処かからか少しばかりの原稿料を貰ったときに、早速それで水彩絵具一組とスケッチ帖と象牙のブックナイフを買って来たのを見せられて大層うれしそうに見えた。其の絵の具で絵葉書をかいて親しい人達に送ったりして居た。『猫』以後には樋口五葉氏や大塚楠緒子女史などとも絵葉書の交換があったやうである。・・・・・・・・

 漱石の楠緒子に対する追慕の記 「硝子戸の中」 二十五
 「
・・・・・・日陰町の寄席の前まで来た私は、突然一台の幌俥に出合った。私と俥の間には何の隔たりもなかったので、私は遠くから其中に乗っている人の女だといふ事に気がついた。まだセルロイドの窓などの出来ない時分だから、車上の人は遠くから其白い顔を私に見せてゐたのである。
 私の眼には其白い顔が大変美しく映った。私は雨の中を歩きなが凝と其人の姿に見惚れてゐた。同時に是は芸者だらうといふ推察が、殆ど事実のやうに、私の心に働きかけた。すると俥が私の一間ばかり前へ来た時、突然私の見てゐた美しい人が、鄭寧な会釈を私にして通り過ぎた。私は微笑に伴う其挨拶とともに、相手が、大塚楠緒さんであった事に、始めて気が付いた。
 次に会ったのは夫から幾日目だったらうか、楠緒さんが私に、「此間は失礼しました」と云ったので、私は有りの儘を話す気になった。
 「実は何処の美しい方かと思って見てゐました。芸者ぢゃないかとも考へたのです」
 其時楠緒さんが何と答へたか、私はたしかに覚えてゐないけれども、楠緒さんは些とも顔を赧らめなかった。それから不愉快な表情も見せなかった。私の言葉をたゞ其
儘に受け取ったらしく思はれた。
 それからずっと経って、ある日楠緒さんがわざわざ早稲田へ尋ねて来て呉れた事がある。然るに生憎私は妻と喧嘩をして
ゐた。私は厭な顔をした儘、書斎に凝と座ってゐた。楠緒さんは妻と十分ばかり話をして帰って行った。
 其日はそれで済んだが、程なく私は西片町へ詫まりに出掛けた。
 「実は
喧嘩をしてゐたのです。妻も定めて無愛想でしたらう。私は又苦々しい顔を見せるのも失礼だと思って、わざと引込んでゐたのです」
 是に対する楠緒さんの挨拶も、今では遠い過去になって、もう呼び出す事の出来ない程、記憶の底に沈んでしまった。
 楠緒さんが死んだといふ報知の来たのは、たしか私が胃腸病院に居る頃であった。死去の広告中に、私の名前を使って差支ないかと電話で問ひ合された事杯もまだ覚えてゐる。私は病院で「ある程の菊
投げ入れよ棺の中」といふ手向けの句を楠緒さんのために咏んだ。それを俳句の好きなある男が嬉しがって、わざわざ私に頼んで、短冊に書かせて持って行ったのも、もう昔になってしまった。
                                 
 
この項 (2)大塚楠緒子との関係)