坊ちゃん

 「坊ちゃん」は「吾輩は猫である」を執筆中(明治38年10月〜40年5月)の明治39年に「ホトトギス」4月号に掲載された小説である。

 
「吾輩は猫である」が好評を得たのに引き続いて、「倫敦塔」、「カーライル博物館」、「幻影の盾」、「琴のそら音」、「一夜」などが発表されたが、「坊ちゃん」も忽然と湧き上がった創作意欲満々の中で書き上げられた作品である。

 大学卒業後の二番目の赴任先であった松山中学での教師生活の経験が作品の背景となっているのは周知のとおりであるが、作品が発表されると登場人物のモデルをあれこれ詮索する向きもあったようである。しかし漱石が述べているように、実在の人物や事象をヒントに虚実織り交ぜて創り上げたというのが実情であろう。


 しかしそうはいっても全くの無から出て来たというわけではないと考えられる所もあると思うので、敢えてこじつけの謗りを覚悟の上で、以下、主として漱石の失恋、都落ちに関すると思われる箇所を拾い出してみることにする。
 「坊ちゃん」こと俺は父親の遺産のうち、兄から600円を受け取り、それを学資にして物理学校を卒業し、四国辺のある中学に数学を教える教師として就職することになる。

 出勤して教員室で辞令を見せながら挨拶をするときに、何人かの教員にあだ名をつけた。

 何時もフランネルの赤いシャツを着ている教頭は
赤シャツ、顔色が悪く蒼く膨れている英語の教師の古賀はうらなり、毬栗坊主で、俺と同じ数学の教師の堀田は山嵐、画の教師の吉川は野だいこ等々である。

 最初の下宿は絶交状態になってしまった紹介者の
山嵐に文句を言われて出なければならなくなり、次の下宿はうらなり先生から荻野さんという老人夫婦の家を紹介してもらった。

 この荻野の御婆さんとの次の会話が、漱石をして何を言わせたかったのであるか興味を覚えるところである。

 「・・・・・『・・・・先生、あの遠山の御嬢さんを御存知かなもし』
 『いゝえ、知りませんね』
 『まだ御存知ないかなもし。こゝらであなた一番の別嬪さんぢやがなもし。あまり別嬪さんぢやけれ、学校の先生方はマドンナ、マドンナと言ふといでるぞなもし。まだお聞きんのかなもし』
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 『其マドンナさんがなもし、あなた。そらあの、あなたを此所へ世話をして御呉れた古賀先生なもし―あの方へお嫁に行く約束が出来て居たのぢやなもし―』
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 『所が、去年あすこの御父さんが御亡くなりて、― 夫までは御金もあるし、銀行の株も持って御出るし、万事都合がよかったのぢやが ― 夫からといふものは、どう云ふものか急に暮らし向きが思はしくなくなって ― 詰まり古賀さんがあまり御人が好過ぎるけれ、御騙されたんぞなもし。それやこれやで御輿入も延びて居る所へ、あの教頭さんが御出でて、是非御嫁にほしいと御云ひるのぢやがなもし』
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 『人を頼んで掛合ふてお見ると、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、すぐには返事は出来かねて ― まあよう考へて見やう位の挨拶を御したのぢやがなもし、すると赤シャツさんが、手蔓を求めて遠山さんの方へ出入りをおしる様になって、とうとうあなた、御嬢さんを手馴付けてお仕舞いだのぢやがなもし。赤シャツさんも赤シャツさんぢやが、御嬢さんも御嬢さんぢやてゝ、みんなが悪るく云ひますのよ。一旦古賀さんへ嫁に行くてゝ承知をしときながら、今更学士さんが御出たけれ、其方に替へよてゝ、それぢや今日様へ済むまいがなもし、あなた』
 『全く済まないね。今日様所か明日様にも明後日様にも、いつ迄行つたつて済みつこありませんね』
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 
これを書くときに、漱石の心の中にふと幼馴染のれんの間に存在したであろうと推定される諸々の感慨が生じなかったであろうか。

 「道草」の中では
れんとは許嫁のような関係にあったように描かれている(れんの実母かつはこれを否定しているが・・・・ 
《「吾輩は猫である」の項参照》)。

 実際に夫となった平岡周造と
れんとの結婚に至る事情は不明である。母親のかつによると平岡とは早い段階で既にれんと許嫁の間柄であったということになっている。

 しかし上記の文から想像すると、許嫁である
れんのところへ平岡周造が入り込んで来てれんを自分から奪ってしまったという潜在意識がこのような形で表われたとも考えることが出来るのではないだろうか。

 潜在意識という点で考えると、この小説の出だしにある、無鉄砲な性格のため、友達からそそのかされて引っ込みがつかなくなり、小学校の2階から飛び降りて腰を抜かしてしまったと書かれているのと無関係ではないと思われる。前出の「『道草』のモデルと語る記(関壮一郎)」の中の次の文と関連があるように思えて大変興味深いものがある。

 
「金之助は夜になると、便所へ行くことが大嫌いで、お爺さんはいつでも縁側からじァあじァあやらせてゐた。するとある晩、どうしたのか縁側から金之助が落っこった。大切の金之助の腰がたゝなくなってしまった。・・・・・・・・・・・・・」



 その後しばらくして赤シャツから転任者が出るのでその分余裕が出来、月給を上げてやることが出来ると云われる。

 「『どうも難有ふ。だれが転任するんですか』
 『もう発表になるから話しても差し支ないでせう。実は古賀です』
 『古賀さんは、だつてこゝの人ぢやありませんか』
 『こゝの人ですが、少し都合があつて ― 半分は当人の希望です』
 『何所へ行くんです』
 『日向の延岡で ― 土地が土地だから一級俸上がつて行く事になりました』
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 漱石自身は松山で一年過ごした後に自ら求めて熊本に転任しているが、東京から都落ちという形で松山に行ったのはそれなりの事情があってのことなのであるという想いを、「坊ちゃん」の中で古賀を延岡へ追いやるという筋立てにして表現したのではないだろうか。勿論その事情は次のような簡単な事柄ではないだろうが・・・・。

 「『あそこも御父さんが御亡くなりになりてから、あたし達が思ふ程暮し向が豊かになうて御困りぢやけれ、御母さんが校長さんに御頼みて、もう四年も勤めて居るものぢやけれ、どうぞ毎月頂くものを、少しふやして御呉れんかてゝ、あなた』
 『成程』
 『校長さんが、ようまあ考へて見とこうと御云ひたげな。夫で御母さんも安心して、今に増給の御沙汰があろぞ、今月か来月かと首を長くし待つて御いでた所へ、校長さんが一寸来てくれと古賀さんに御云ひるけれ、行って見ると、気の毒だが学校は金が足りんけれ、月給を上げる訳にゆかん。然し延岡になら空いた口があつて、其方なら毎月五円余分にとれるから、御望み通りでよからうと思つて、其手続きにしたから行くがえゝと云はれたげな ― 』
 『ぢや相談ぢやない、命令ぢやありませんか』
 『左様よ。古賀さんはよそへ行つて月給が増すより、元の侭でえゝから、ここに居りたい。屋敷もあるし、母もあるからと御頼みたけれども、もうさう極めたあとで、古賀の代りは出来て居るけれ仕方がないと校長が御云ひたげな』
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 『・・・・・・・・・・全く赤シャツの策略だね。よくない仕打ちだ。まるで欺撃ですね。それで俺の月給を上げるなんて、不都合なことがあるものか。上げてやるつたて、誰が上がつて遣るものか』
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 初めて宿直の勤務についたとき、寄宿舎の生徒達が布団の中にバッタを入れたり、どんちゃか騒ぎをやらかして寝ているのを妨害するいたずらをする。
 その後、教頭の赤シャツに誘われて釣りに行った時、同行した野だいこと赤シャツが生徒達を煽動したのは山嵐(数学教師の堀田)であるかのように吹き込み、堀田との仲を裂こうとする。マドンナの件も含めて、教員同士の間にも種々雑多な陰謀、一種の権力闘争などが存在することを訴え、自身のいわゆる松山落ちについての事情を坊ちゃん周辺の事件として表現したのではないかと考えるのである。

 
この項「坊ちゃん」