中之島望見

 中之島は黄海から約30キロメートル遡ったところに位置する鴨緑江下流に出来た中州の島である。

 行政区域上の名称は威化面(村に相当する)である。

 上流から流されて来る筏の貯木場でもあり、営林署があった。

 日本人は島全体で20世帯位、小学校は全校生徒20人足らずであった。したがって1年生から6年生までの生徒を2教室に分け、3つの学年を一人の教師が受け持つ授業であった。

 小学校卒業後は、安東中学校または女学校への通学が大部分であったが、勿論新義州中学校へも通った。

 北側の対岸は旧満州の安東市、南側は新義州に夫々面している。

 川とはいうものの、黄海の干満の影響を受け、同じように水面が約2メートル前後上下する。

 この中之島で敗戦後の引き揚げまでを含めて約5年間あまりを過ごしたので、故郷ともいうべき場所である。
 上図は昭和20年4月、非常用鉄道(木橋)として工兵隊により建設が開始され、敗戦直前に完成した。安東側の木橋は翌年洪水で流出してしまった。
 水面が下がったときに撮った写真である(金1円也のボックス・カメラで撮影)。満潮時には手前の地面まで水没してしまう。

 対岸は安東で、左の山は鎮江山、右側は元寶山である。

 安東、新義州への交通は何れも手漕ぎの渡し舟であった。水豊ダムが建設されるまでは、冬には完全に凍結し、橇や歩いて行くことが出来た。

 水豊ダムの完成(昭和16年)後は凍結しなくなったが、新義州側は凍り、冬は徒歩で渡ることが出来た。
威化島回軍
 高麗朝末期に中国では明が建国され、元と覇権を争っていた。高麗王朝内でも親元派と親明派とに分かれて争ったが、親元派は明を攻撃するために武将の李成桂を派遣した。しかし李成桂は明と結んだ方が得策であるとし、威化島まで進めていた軍を引き返し、都であった開城を制圧した。1388年のことである。

 この4年後の1392年に李成桂は太祖と称して李氏王朝を開き、国号を朝鮮としたのである。

 このクーデタを一般に「威化島回軍」というのであるが、この威化島が中之島である。
1992年と19995年の2回、中国の丹東市側から遊覧船に乗り、鉄橋の少し下流から中之島方面へ鴨緑江をさかのぼった。

 左側の茶色の建物が中之島小学校である。こちら側に運動場があり、さらに中之島神社があった。敗戦の2,3日後、神社は朝鮮人により破壊されてしまった。
 


 上の写真から小学校の部分を拡大トリミングした。右端に職員室、続いて教室が二つで、全校生徒は20人内外(日本人)であった。
    1992年(平成4年)撮影。


中之島小学校の正面写真。上の写真の反対がわにあたる。昭和14年(1939年)、ボックスカメラで父に撮ってもらった。



中之島の南側部分である。赤字で書かれている地域が島の主要部分。

鴨緑江を2分した形に位置し、北は満州の安東(現在は中国の丹東市)、南側は新義州である。

左下側に2本の鉄橋が見える。半分になっているのは明治の終わりにつくられたもので、朝鮮戦争の時にアメリカの空爆で破壊された。




写真はGoogle Earth より

上の写真の主要地域を拡大してみた。

左端の赤字部分は我が家があったところと思う。

中央の赤字のところは中之島北国民学校(日本人の学校。教員2名。生徒数20名足らずであった)。

右側の赤字部分は朝鮮人生徒の中之島南国民学校。
母はここの教員をしていた。