蓄音機の発明

 グーテンベルクによる活字印刷術の発明は人類文化史上における最大の功績ではないかと思うが、エジソンの蓄音機の発明もこれに匹敵する恩恵を我々に与えてくれたのではないだろうか。
 発明者であるエジソン自身が,自分で製作した円筒式蓄音機からの音を初めて聴いて飛び上がるほど吃驚したそうであるが、さもありなんで、人類は文字に続いて音声を記録として永久に残すことが出来る手段を獲得したのである。

 1877年 トーマス・エジソン(Thomas Edison)は、直径約10pの円筒形に錫箔を巻きつけた円筒型の蓄音機を発明しフォノグラフ(Phonographと名付けたが、その後は手がけていた白熱電球の開発に夢中になり、蓄音機の研究を一時中断した。

 フランスでは蓄音機の発明者はシャルル・クロ(詩人)ということになっている。その理由は「フォノトグラフ」によって煤に描かれた音声信号の波形を何らかの方法で凹凸に変え、その上を針の先でたどり振動板と連動させれば原音を再生することが出来るという論文をエジソンの蓄音機の発表前に書いているからである。しかし具体的な製作方法がなく、実際に製品にはならなかったので、フランス以外ではエジソンに名を成さしめる結果になっている。

フォノトグラフ(Phonautograph)
 フランスの写真技師レオン・スコット・マルタンヴィルが発明した(1859年)音声の波形を目で見る機械
 ラッパ状のホーンの先端に羊皮紙を振動板として置き、豚の毛をその振動板に蝋で固定する。この豚の毛を煤を縫った円筒状のシリンダーに接触させ、ラッパに声を吹き込みながらシリンダーを回転させれば、煤の表面は音声信号によって削られ、視覚的にその軌跡を音声信号波形として認識することが出来る。

 しかし他の人によって蓄音機の改良研究は引き続き行われており、音質の悪い錫に変わって蝋を用いたり、針の材料を変えたりしている(グラフォフォンと名付けられた)。

 また1887年(明治20年)にはエミール・ベルリーナ(Emile Berliner)が円盤型の蓄音機を発明しグラモフォン(Gramophoneと名付けた。

 寺田寅彦は円筒管式蓄音機の再生音を初めて聴いた時の様子について、随筆「蓄音機」の中で書いているが、その内容は非常に興味深い。エジソンの蓄音機が発明されてから16,7年後の中学3年生か、4年生の時であったというから明治26年か27年(1893年または94年)頃のことである。
 全校生が講堂に集められているところへ文学士某が(理学士でなく文学士というところが妙であるが)蝋管式の蓄音機を持って現れた。その歴史、原理構造などを説明した後、吹き込みラッパに口を押し当てて機械を回し始め、大声で「ターカイヤーマーカーラアヽ」と歌い出した。どのようなことが展開されるかと興味津々であった中学生一同、さぞかし度肝をぬかれたことであろうと私は想像するのだが、実際クスクス笑い出した者もいたようである。

 その地方の民謡か何かを歌い終わった後、文学士は汗をふきふき今度は再生用の振動膜とラッパを取り付け再び機械を回し始めた。すると妙に押しつぶされたような鼻声ではあったが、確かに先ほど文学士が吹き込んだ音がかなり忠実に再現されたので、一同感嘆しまた笑い声が起きたというのである。

 
寅彦は蓄音機で音楽を聴くことの出来る効用は認めているが、生で聴く音に比べてのあまりの音の悪さや雑音、そしてスクラッチ・ノイズには我慢が出来なかったようだ。この随筆が書かれたのは大正11年(1922)であるが、1924年(大正13年)には電気録音方式が発明されており音質その他大はばに改善されている(電気録音方式の周波数特性は100〜5000Hz)。このレコードを聴いたらどいう感想を述べただろうか。

 エジソンのフォノグラフ第一号機では、吹込み用のラッパの前で怒鳴るような大きさの声で録音しても、再生音はやっと聞き取れる程度であったそうである。
 寺田寅彦が聞いた頃にはかなり特性も良くなっていたと考えられるが、それでもトータルシステムとしての再生帯域は300〜1500Hzであったというから聴くに耐えないという感想ももっともである。

 一旦蓄音機の研究を放棄したエジソンは約10年後に再び研究を始めたが、最終的にはベルリーナの円盤式蓄音機に軍配があがった。

 
アコースティック録音について
 1924年(大正13年)にアメリカのベル研究所で電気録音システムが完成し、音質は飛躍的に改善されたが、録音時の作業能率も著しく向上した。
電気式録音になるまでの録音方式をアコースティック録音という。
原理的には音声信号を増幅することが出来ないから、蝋の表面に溝を刻む振動盤(サウンドボックス)の針に如何に効率よく信号を伝達するか、またピックアップした信号を如何に大きな音声として聴かせるかが重要になってくる。
 吹き込み用ホーンいわゆるラッパから入った音声は先端に取り付けられたサウンドボックスに導かれる。サウンドボックスには振動板とその振動によって動作する針があり、針の振動を回転しているロウ盤に刻んで行くのである。

 ターンテーブルを回転させる動力は回転むらを避けるため、左図に示すように10キログラム程度の重さの錘りをゆるやかに落下させる方法をとった。

 録音が終わると下まで降りた錘りを巻き上げる。

レコード半面の演奏時間は3分半程度であるから、クラシックなどの長い曲の録音では10回以上もの巻上げ作業をしなければならず、録音技師にとっては大変な重労働であったようだ。

 また機械的に振動板を振動させるだけであるから、音質は使用する振動板の性質に依存せざるを得ず、音楽の内容によって色々な振動板を使い分けるのが技術屋の腕の見せ所ということであったという。(「オーディオ50年史」より)
 「音楽の科学」という書籍にB4版大の写真でアコースティック録音を行っている写真があった。

1920年、、指揮ロザリオ・ブールトンによるビクター・サロン交響楽団の録音風景である。

著作権の関係で写真そのものを掲載することが出来ないのは残念であるが、右図でその状況を説明する。

 10メートル四方の大きさの録音室で、口径70〜80センチ、長さ(図のW)1メートル50センチ位のラッパの前を演奏者が半円形に取り囲んでいる。

 指揮者はラッパの首の部分に立ち、あとは楽器の音の強弱に応じて配置されているようである。クラシックとはいうものの、現在のような大編成というわけにはいかなかったようで、譜面に記載されている楽器編成の最小限の人数である。

 カッティング用の針の振動と楽器の音の強弱との調整が一番難しく、例えば歌の録音では首を振ってはいけないとか、大きな音にならざるを得ない時は、そっとラッパから離れて歌うとか、今では考えられない光景である。

LPレコード
 1948年(昭和23年)にアメリカで発表された。それまでのSPレコードは30センチ盤で4分半の演奏時間だったが、30センチで30分の演奏時間、再生帯域も広がり、針音がなく、S/N(信号対雑音比)が改善されてダイナミックレンジも広がった。
 日本で純国産のLPレコードが発売されたのは1953年(昭和28年)である。

 昭和31年(1956)当時、新宿の風月堂には2000枚以上のLPレコードがあると言われていたが、1枚2000円以上の価格だったはずで、どうしても欲しいレコドを月賦で買った記憶がある。

 高校の国語の教科書にベートーベンが第九を指揮した時の逸話がのっていたが、音楽好きの教師が10数枚のSPレコードをうんうん言いながら教室まで抱えて来て蓄音機にかけたことを思い出す。