鉱 石 受 信 機

 昭和9年(1934年)の4月、教員だった両親は北朝鮮の新義州に転任赴任した。そのとき私は間もなく満2歳になろうとしていたが、もちろんその際の記憶は一切ない。

 物心ついた時のイメージとして今浮かんで来るのは、なんでも受話器を耳にあてて、畳の部屋のテーブルの傍らに座っており、父が盛んに「聞こえるだろう、聞こえるだろう」と云っているシーンである。多分、機械好きの父が自分で作った鉱石受信機を私に聞かせようとしていたのであろう。

 中学生の時、何故ラジオを作ることにあれほど夢中になったのかよく分からないが、引き揚げて来て聴いたラヂオの印象が強烈で、やがてそれをただ受動的に聞くだけではなく、自分で作ったもので聴きたいという思いに変わり、その手始めとして鉱石ラジオを製作するようになったのかもしれない。

 大正14年(1925年)にラジオ放送が始まると、当初5,000人前後の聴取者が半年後には75,000人を超えたという。ただしその大部分は電源が要らない鉱石式の受信機であった。

 米1斗(約14kg)が4円50銭前後の価格の時代、最低でも受話器なしの鉱石受信機が15円、受話器もやはり1個10円程度の価格だったという。真空管が1本5円程度で、真空管式のラジオ受信機にはとても手が出ず、最初のうち大部分の人は鉱石受信機で聴取した。


 倉庫の中を整理していたら、中学生の時に作った鉱石受信機の残骸が出て来た。

左上の写真 スパイダ・コイルバリコン(可変空気式蓄電器)、同調を選ぶノブなど懐かしい部品類。
右上の写真  昔はこのようなマグネチック型の受話器であった。
左の写真  検波用の鉱石。ものによって感度が違う。


もっとも典型的な鉱石受信機の回路図である。

しかしこの中には無線技術の基本的な動作、理論が多く含まれていて、よく考えてみるとそれほど単純なものでもない。

コイルとバリコンによる同調回路や、振幅変調されている受信波を復調する鉱石検波器の検波動作の理解、音声に復調された信号を実際に耳に聴かせる受話器の動作等、どれをとっても簡単なものではない。

中学生当時、どの程度理屈が分かっていたのか、おそらく作ることに夢中になっていて動作の追及など念頭になかったと思う。