平 壌(ピョンヤン)

 平壌を訪れたのは都合4回になる。
 1回目はかすかな記憶しかないが、小学校の2年生か3年生の時、父母に連れられて行った。何の目的であったか、多分観光だろう。一泊したのか日帰りだったのか定かでない。
 
 2回目は、敗戦の年、昭和20年(1945)の8月7日、8日、9日である。陸軍幼年学校入試の身体検査を受けるために、教師に引率されて仲間数人と一緒に新義州から出かけた。平壌駅前の旅館に宿泊したということを後年聞いたが、はっきりとは覚えていない。
 
 検査が終わって明日は新義州に帰るという時に、ソ連軍が満州の国境を越えて進入して来たという情報が入り、その夜の夜行列車で帰ったのが強烈な印象となって残っている。灯火管制のため、電灯は黒い布で覆われていたが、旅館の薄暗い部屋の中で聞かされたソ連軍参戦のニュースは少年なりに深刻なものを感じたものである。

 3回目は1992年、4回目は1995年である。いずれも旧満州の安東から鴨緑江の鉄橋をバスで渡り、新義州からは列車で平壌入りをした。

 新義州にも立ち寄ったが、別ページで紹介してあるのでここでは触れない。平壌市内についての訪問記は多数あるので、特に印象深かったものを以下掲載することにする。

平壌(ピョンヤン)駅二景
 1992年9月撮影。夜9時近く、宿舎の高麗ホテルから怖々出て、平壌駅の真正面まで行ってみた。翌朝同じ場所でと思いホテルから出たところ、付き添いの案内人に出くわし、何処へ行くのかと言われたとたん、駅正面まで行く気がしなくなり、止むを得ず右上の写真(駅正面に向かって右側)で我慢。

授業参観
 二十数名のツアーだったが、当日は日曜日にも拘らず、わざわざ我々のために授業をみせてくれた。左は英語教室。

思い出
 平壌市郊外北部にある乙密台(左上)に登り、更に北数百メートルに位置する牡丹台を望む。小学生の時に平壌に来て登ったのは多分、牡丹台の方だったと思う。
 平壌市内は朝鮮戦争で完全に破壊され、往時の面影を全く留めていないが、それでも王朝時代の建築物(右上の普通門)を見ることが出来るのは嬉しいことである。(1995年撮影)

インフラ二題
市内で見かけた信号機。右側通行だが、信号機の表示は日本と大分趣きが違う。右の写真は午前9時頃、ホテルのテレビで見たピョンヤン放送のテストパターン。

凱旋門

パリの凱旋門(高さ49メートル)よりも大きいというのが自慢。

 高さ60メートルというから確かに大きいことは大きい。

 左側柱状の中ほどに見える「1925」の数字は金日成が朝鮮革命を目指して日本帝国主義と闘うべく満州に出かけたという年を意味し、右側の「1945」は志成って凱旋した年を表しているということである。

 完成は1982年とのこと。

 
大城山革命烈士像


 上の写真に見られる大きな門に続く石段は幅40メートル、300段以上ある。

 この石段を登りきると左右に花崗岩で作られた群像(高さ5.5メートル、長さ18メートル)が並べられている。
 
下の写真下部の左右には銅製の群像が配置されている。

 正面に見えるのは淡紅色の大理石で作られた旗(高さ11メートル、長さ20メートル余)である。

 何といっても圧巻なのは、階段状に配置された胸像群である。石の台の上に置かれた高さ数十センチの胸像は全部で100位とのことであるが、解放のために戦った英雄の像だそうである。

 奥にあるものほど位が高い人物の胸像である。




 
左側の像は、金貞淑(1917−1949年、金日成の先妻)のものである。
 
(この項の写真のうちの5枚は現地で購入した中国語で書かれた小冊子から借用した。)

大同江ホテル、電力不足で全焼
 約2週間、滞在した「大同江ホテル」が火事で全焼したという事は知っていたが、最近読んだ「北朝鮮を知りすぎた医者」(ノルベルト・フォラツェン:Norbert Vollertsen)にその様子が書かれている。

 左の写真はコーヒーショップの店員、右側はホテル内の国際電話交換手。
 
 「1999年の秋のある日のこと、朝五時ごろだったろうか、なじみの大同江ホテルの近くまで来ると交通止めになっていた。これは非常に有名なホテルで、多くの外国人に愛されていた。大同江のほとり、金日成広場のすぐ近くで、町の真ん中にあるからだ。私の記憶では、少なくとも六階建てだったと思う。古いがしっかりした造りで、ランドリーと小さな建物をいくつか従えたかなり立派な建物だった。このランドリーがあるので、私はよく来ていた。つい数日前も友人の中国人ビジネスマンをこのホテルに訪ね、しゃれた「コーヒーショップ」でいっしょに食事をしたばかりだ。ところがどうだ、何車線もあるメインストリートは完全に封鎖されているではないか。こっそりあたりを歩きまった結果、かの有名なホテルは無惨に焼け落ちたことがわかった(もちろんランドリーも燃えてしまった)。

 まだくすぶっている瓦礫を前に、消防隊員がすぐ近くの大同江からバケツで水を汲み、せめて延焼を防ごうと必死になっていた。ポンプを動かそうにも電力がない。あとでわかったことだが、火事になったのもその消防活動を妨げたのも、もとはといえば原因はひとつ、電力がないからだった。出火原因は送電停止されたために消し忘れた旧式のアイロンだったのだ。

 北朝鮮の消防隊は非常に古めかしい。消防車はすべておんぼろで、そのほとんどは中国あるいは旧ソ連風のデザインだ。消防隊員のユニフォームは濃紺で、やはり非常に時代遅れな印象だ。北朝鮮では火事が多いが、その後見た消防隊員のユニフォームに新しいタイプのは見かけなかった。何もかもが非常にみすぼらしく、消防活動もスムーズにいかなかった。死傷者については政府筋からは当然ながら何の発表もなかった。メディアもいっさい報道しなかった。

 最大の問題は電力不足とならんで給水の不足だ。大同江ホテルのときも、近くにまともな給水栓はなかった。幸いこのときにはまだ大同江は凍っていなかったが、その往復を考えるとむろん作業
は手間取った。(「北朝鮮を知りすぎた医者」より)
平壌空港の出国ゲート(こちら側が通関後の位置