板門店ー開城
1995年4月24日、板門店、開城を見学。ガイド氏からは板門店の見学は当初の予定にはない特別の計らいであると恩に着せられたが、これにはそれこそ特別の事情があったのである。 旅行会社のプランでは4月20日の朝、成田空港出発、中国の上海経由で丹東に入り、4月22日に鴨緑江の鉄橋をバスで渡って新義州入り、市内を見学後、駅前の鴨緑江ホテルで宿泊、翌23日平壌へ向かうというはずであった。 ところが、鉄橋を通過して前回(1992年)の例どおり、入国審査のために右手にある税関の広場へ入ると思っていたら、バスはそのまま直進しあれよあれよと言う間もなく、新義州駅のホームまで一気に駆け上がってしまっていた。そこには数名の警察官が待ち構えていて添乗員に何かを言っている。バスから降ろされた我々への説明では新義州に入れることは出来ないからこのまま直ぐ汽車に乗って平壌へ行けということであった。 何が何やらさっぱり分からないのだが、その場の雰囲気が厳しくてとても文句を言えるような状況ではなく、皆不満ではあったがやむを得ず新義州での見学をあきらめたのである。 いってみれば一種の詐欺にあったということだったのだ。 その上、列車が発車すると、乗り込んでいた税関の係員達(警察官?)が厳重な身体および荷物検査を始め、そのやりかたたるやズボンのベルトまで緩めさせる輩(やから)もいたのである。このため一行二十数名の一団はすっかりびびってしまい、抗議を申し込むどころの話ではなくなってしまった。思うに脅かしで有無を言わさずに不平を封じ込める作戦をとったと感じたのはひがみだったろうか。 その一方で板門店見学という飴を舐めさせられたということなのである。 それはともかく午前9時ごろ、観光バスに乗って一路、板門店へと向かった。(板門店は北緯38度線の南側約5Km、開城の東約8Kmの位置にある) |
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途中の風景。茶褐色の土の色が平壌や、あとで見学する開城の古い町並木に比べて殺風景に思えた。 |
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沙里院付近を通過中であると言うガイドの説明。 1946年(昭和21年)10月、窓や座席のない客車に乗って新義州駅を出発したが、沙里院駅で降ろされ、その晩は駅構内の倉庫のコンクリート床に直かに寝て一晩過ごしたことを思い出した。 |
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途中で見かけた農作業中のトラクター 「ソウル」へ70Kmの看板。 38度線が丁度このあたりにあたるのか。かつてどの辺の山を、深夜歩いて超えたのだろうか。 |
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建物の中で立体図により係員(軍人)から説明を受け現場へ向かう。青い屋根の建物が休戦会談が行われるところ。室内のテーブルを横断しているマイクコードが境界線になっているが、この室内では自由に越境してもいいという説明であった。 |
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幅20センチ位の板状のコンクリートが境界線。窓から韓国軍の兵士の姿。この境界線を挟んで北と南の両方で警戒にあたっている。向こうにも観光客が見物する塔がある。 |
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南側の展望台にも日本人らしき顔が見えていた。 左は北側にある統一閣(?)の二階から展望したもの |
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朝鮮戦争の休戦会談が行われた建物。その際使用されたテーブルがそのままの状態で展示されている。休戦協定書に署名する時に金日成が使用した万年筆、着用していたネクタイがガラスケースに収められていた。その他、捕獲した小銃などの武器類、宣伝の写真等が掲示されている。 |
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昼食をした「板門店閣」と開城へ行く途中にあった「平壌」への距離標識。 |
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開城市内の風景。殺伐とした印象を受けてしまうのだが、気のせいだろうか。(「南大門」は1300年頃の建築という説明である) 場所がどの辺なのか知る由もないが、テント村で約一週間を過ごした。10月下旬だったが、それでもマットが敷かれたテントの中の生活は快適とは言えないまでも有難かった。 |
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昔の佇まいを見せているヤンバン村が保存されていて、しっとりとした情感が蘇えって来る。 |
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