新宿風月堂(ピアノ協奏曲20番        

                        最初、この店の名前を目にした時、私は経営者はてっきり「銭形平次」の作者、野村胡堂だと思ったし、今でもそうではなかったという気がしている。1991年に閉店したそうだが、ふとしたきっかけでこの喫茶店に入ったのは、前期の期末試験が終わり、そろそろ秋の気配を感じ始めたころのことではなかったかと記憶している。開店後まだ2,3日しか経っていなかったと思うが、厚手の重厚な感じのする木製の扉を押して中に入ると、二階へ上がる階段と、半地下への階段とに分かれていて、床にはレンガが敷きつめられてあり、薄暗い照明が音楽喫茶店の雰囲気を醸し出していた。

 大卒初任給が1万円そこそこだった当時、レコード1枚が2千数百円もした時代である。客が殆どいない上品な感じのするクラシック専門の喫茶店で1杯数十円のコーヒーを飲みながら落ち着いた気持ちでリクエスト曲を聞くというのは当時の私にとっては最高の贅沢であったのである。
 
 モーツアルトの音楽としては出だしから重々しい陰鬱な感じのするピアノ協奏曲20番は、第2楽章に入って少し明るさを与えられるが、それもほんのしばらくの間だけで、最初以上に憂鬱な気持ちにさせられ、一種えもいわれぬ気だるさを覚えたまま曲は終わる。普通の場合だったら何回も聞いてみたいとは思はなかっただろうという気がするけれども忘れることの出来ない曲の一つなのである。

 いきなり澄明なトランペットが聞こえてくるイタリア奇想曲に比べメインのスピーカーが主役を勤め、低音のうなるような感じのするこの曲はやはり風月堂で開店前の朝の時間に時々耳にしたレコードだった。この曲名を教えてくれ好きな曲のうちの一つだと言ったのは、黄色の制服に身を包み、少し浅黒い顔に大きな黒い瞳のウエイトレスだった。その瞳の中に一瞬ひらめいたあるもの、あれは一体何であったのだろうとその時も薄暗い照明の中で20番を聴きながらしばし考え込んでしまったのである。しかしその答えを得る前に夏休みが終わり、もう再び謎を解くことは出来なくなってしまっていたが・・・・・・。
 
 疲れたとき客があまりいないのををみはからってテーブルの椅子に腰掛けていると、ボーイがやって来て椅子に掛けてはいけないなどと言う。腹が立ったので、1杯70円のコーヒーを注文をする。その時テーブルに置かれた伝票の数字は30円であった。どういう操作をしたのかとに角嬉しかった。
 ある時、どんな曲が好きかと聞かれ、ベートーベンの皇帝をあげたが、皇帝もいいが、ピアノの4番が好きだという会話もあった。モーツアルトの20番とベートーベンの4番から受ける印象に私は一つの矛盾を覚え、不思議な感情に捕らえられたのである。

 モーツアルトの天使の声と言われる他の曲に比べ何となく親しみ難いこの20番協奏曲を聴くとき、「あらえびす」のあの薄暗い照明の中でじっと耳を傾けていた自分の姿を目に浮かべ、今は思わず苦笑させられるのである。(ピアノ協奏曲20番)(00/12/03)

(店 内)