新宿風月堂(空調設備)

 ある時、例の如く温度を測りに1階に降り、横山さんのそばを通りかかったらこういうこともあった。”冷房が全然効いていない。よその店はもっと良く効いている。其の店にコーヒーを飲みに行って調べてきてくれ”とのことである。そして100円札1枚を手渡された。大卒初任給が1万円前後、コーヒー代70円だった。

 アルバイトを始める時に、工事会社の社長から冷房としては外気温との差が3度くらいが理想的な状態であると教えられていたので、それまでにも効きが悪いと言われたときには何時もその旨横山さんに返答していた。それで納得してもらえていたのかどうかよく覚えていないのだが、其の日はよほど気になったのであろう。確かに店は満員の状態であったし、外も暑い日だったような気もする。当時の金額で300万円位の投資だと聞いていた。経営者としては気が気でないという気持ちも分からんではないと思ったのも事実である。

 ともかく早速、温度計を持って指定された喫茶店に行ってみた。なるほど店に入った瞬間、ひやりとした冷気を感じた。30分くらいしてから風月堂に帰ってみると、室内と外気温との差は1度半程度しかなく、確かにおっしゃる通りですとかぶとを脱ぐしか仕方がなかった。ただ入っている人の数が違いすぎるので比較にはならないというような弁解をしたかもしれない。そして明日は、斜め向かいにある「ランブル」へ行くようにと言われた。「ランブル」はクラシック専門の喫茶店だったと思う。
とに角顔を見るたびに冷房の効きが悪いと言われるのには大いに閉口したものであるが、それをどのように納得してもらえるように返事をしたのか全く記憶していない。工事会社の社長あたりの説得や説明もあったのであろう、数日後には言われなくなったような気がする。

 その他、夕方になって食事をしに外へ出ようとすると入り口でつかまり、話し相手をさせられた。なかでも印象深く記憶に残っているのは、冷房の方の仕事が終わったら、新学期まで風月でボーイのアルバイトをしないかというものであった。

その時は、毎晩遅くまでの仕事で疲れきっていて、これ以上のアルバイトは御免との思いだけばかりが先行しその申し出を断ってしまったが、今考えると惜しいことをしたような気がする。黒ズボンに白の上着、蝶ネクタイ姿でトレイを片手に客席の間を注文を取りに回っている自分の姿が想像出来るのであるが、さまになったかどうか、人生経験としてまたとない機会を逸してしまったのは当時の自分が幼なすぎたせいであり、かえすがえすも残念なことをしたものだと今になって後悔する事しきりなのである。

 横山夫人とも何度か話しをした筈なのだが、これが全く記憶にないのもおかしな気がする。後に妹が風月堂に勤めることになるのだが、それを頼みに行きいろいろお願いしたのは横山さんではなく夫人の方だったから、余計に不思議な気がするのである。

写真は厨房での横山夫人。(空調設備)(00/09/12)

(ピアノ協奏曲20番)