新宿風月堂(視 線)

                                                                       店の中の数カ所に取り付けられた温度計の温度を1時間半おきくらいに測って回るという単調な仕事の生活が続くようになった。特に技術を必要とするものでもないから測定した結果を記録用紙に書き込んでしまうと後はする事がなくなり、むしろ退屈なくらいである。ただ閉口したのは毎日夜の10時半過ぎまで温度を記録しなければならない事であった。初めの約束では5時までということであったから、話が違うとは思ったが、文句を言って投げ出すわけにも行かず、残業代がそれだけ増えればそれはそれで助かると考え、単調なアルバイト生活を続けていた。
 温度の測定など単純なことだが、ただ時間をかけなければならない個所があった。屋上のダクトから室内に冷気を導いている空気噴出し口周辺の温度の測定である。冷凍機で冷やされた空気が室内で発生する色々な熱源でどの程度暖められて冷凍機に再び送り込まれて来るか、即ち冷凍機の効率がどのくらいかを判断する目安になると言う理屈である。

 天井の中央に2,3箇所,空気噴出し口が取り付けられていた。店は2階吹き抜けの構造ではあったが、正面から見て三分の一ほどの幅が2階部分になっていたので、空気噴出し口周辺の温度を測るには都合がよかった。2メートル位の棒の先に温度計を縛り付け、2階の手摺りからその棒を差し出せば丁度届く事が出来た。

 温度計の指示が安定するまでには数分かかるのでその間、棒が動かないように注意してただじっと立っているだけである。退屈でつまらないから自然、所在無ささに2階から下を見下ろす格好になってしまう。数人のグループで熱心に議論しているのもいれば、一人で眼を閉じ腕組みをしてレコードに聞き入っているのもいる。
 殆どは私が2階の手摺りから身を乗り出して棒を天井に差し出していることなどに関心を払ったりしないが、なかには時々何となく上を見上げた時に私の姿を認め、何をしているのだろうと不思議そうな様子で、暫し私の方に視線を向けているのを感ずることがある。しかしそれは見回した時にたまたま他のものと一緒に一つの風景として目に入ったものであって、やがてその視線は私を去って行ってしまうのである。私の方も毎日そのようなことがしばしばあるので、見られているという意識もないから大して気に留めることもなく、階下をただ眺めるともなく眺めているだけであった。
 
 ある日、例の如く測定棒を噴出し口にあてて見るともなく1階の様子を眺めていた。客が立て込んで来て、カーキ色に近い濃い黄色の半袖のワンピースの制服を着た数人のウエイトレス達が店の中を動き回っていた。彼女達も忙しそうだなと思いながら空気噴出し口にあてている棒の先を見たり、階下を見下ろしたりしていた。丁度その時一人のウエイトレスがトレイにコーヒーをのせて私の直ぐ下を通りかかっていた。そしてひょいと私のいる方を見上げた。彼女に特別な理由があり明確な意思があって見上げたわけではなく、右を見たり、左を見たり、毎日狭い店の中を何回となく歩き回っている時の一種習慣となっている感覚として行なった行為にすぎないのであろうが、たまたま私も無意識に、店の中を動く物体の一つを遠く眺めているという感覚で彼女の歩きに合わせて視線を転じていたのである。そして一瞬、見上げた彼女の視線と私の視線が一致してしまったのである。その時はっとしてあわてて視線をそらしたときの驚き。

 考えてみると日常生活の中で人と人とがまともに意識的に視線を合わせ、その視線がそのまま止まってしまうと云う事は滅多にないのではなかろうか。他人の方を見ている時、その相手が私の方に視線を転じようとしているなと感ずると、相手の顔全体は視野から外すことなく視線だけは避けるというのが少なくとも私の場合であった。

 しかし私以上に狼狽し驚いたのは彼女の方であったと思う。無意識のうちに眺めたその先に自分を見つめている一つの視線があった。その一瞬の視線の交錯の内に生じた夫々の感じは何であったか。私の方はその瞬間は単純にそれまで経験しなかったことに対するただ狼狽の感情のみであったような気がするが、彼女の方は無意識とはいえ、見上げるという行為の中に、してはならないことをしたという罪の意識と、それを恥ずかしくはしたない行為と感じたたのではなかっただろうかと思う。顔にさっと朱が差したかどうか勿論分からないが、そのようであるが如く、直ぐに視線を正面に戻し、私の直下を通り過ぎて行った。

 周章狼狽したとはいえ、お互いの視線が絡み合った一秒の何分の一かのその瞬間、しかし私は彼女の黒い瞳がはっきりと大きく見開かれ、そして動くのを明らかに感じ取ることが出来たと思ったのである。そしてその時、私の周りからは風月堂という空間は消えてなくなり、遠く広く遥か山の彼方の世界から何物かが私の眼前に現れたように感じ、しばし全てを忘れ去り、寒暖計を縛り付けた木の棒を持ったまま2階の手摺りの傍らで立ち尽くしていたような記憶があるのである。(視 線)(00/08/28)
(通 訳)