新宿風月堂(イタリア奇想曲)
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盛り場の朝というのは妙に侘びしく味気のないものだ。夜のネオンや照明に比べればはるかに明るい太陽の光が歩道一面を覆ってはいるけれども、人通りは殆どなく夜は客の出入りがひっきりなしにある店々の扉も固く閉ざされていてかえって寂寞感を覚える。そんな中をガラスのドアを開けて風月堂の店内に入ると、この寂寞感が一層増すように思われる。 |
| まだ誰も来ていない店の中は薄暗く、奥へ行くにしたがって暗さが増すような感じがする。テーブルの上の灰皿の煙草の吸殻、周りに散っている灰、そしてなによりも昨夜からの空気がまだ天井高く漂っているような、どんよりとした感じ。これらはいずれも生気のない退廃的な雰囲気を醸し出していて、私は早くその場の空気から抜け出してしまいたい気になってしまう。 鉄製の梯子を数歩伝って屋上の冷凍機室に出るとそこが私の職場だが、しかしそこも店内の空気がそのまま持ち込まれているように薄暗く、森閑としている。そんな雰囲気を打ち消すべく、早速冷凍機のスイッチを入れる。モータが回り始めその低い回転音が聞こえて来ると何かほっとした気分になる事が出来、私の日課が始まるのである。 まず冷凍機のINとOUTの温度計の温度を測り、次に外気温を測定した後に店内に降りて行き、室内の温度を測る。 この頃になるとそろそろ店の人達が出勤して来る。マネージャーの要さんがコーヒーの豆を轢き始めると香ばしいその匂いが店内いっぱいに広がる。ボーイやウエイトレス達が灰皿を片付け、テーブルの上を雑巾がけし、床の清掃を始める。それまでのよどんでいた空気が徐々に取り払われやっと活気に満ちた風月堂がそこに現れはじめるのである。 と突如、奥の壁に埋め込まれている大きなスピーカーから店全体を震わすかのようにして大音響が鳴り響き始める。客が入るまでのしばらくの時間の間、ウエイトレスの一人が自分の好きな曲を選び、ボリュームを最大限に上げてLPレコードをかけたのだ。今でも耳の奥底にへばりついて離れないのが、チャイコフスキーの「イタリア奇想曲」である。まず高らかに鳴り響くトランペットの音があたり一面の空気を貫いて広がって行く。それはまだ客のいない店内を軽々と通り抜け、吸収されることなしに道路側のガラスの壁に突進し、跳ね返され、温度計を覗き込んでいる私の耳に突き刺さる。スピーカーの発する低音の音波は店の中のあらゆる物体を揺さぶり、軽快なメロディは沈んだ空気を一気に振り払うかのようである。何日かおきに決まってこのレコードをかけていたウエイトレスの顔は、はるか遠くにかすんでおぼろげにしか浮かんで来ないが、あのよどんだ、まだ完全には照明がともされていない、薄暗い一種言うに言われない雰囲気の店内を駈け抜けて鳴り響いたトランペットの音は今でも鮮明に思い出すことが出来るのである。(イタリア奇想曲)(00/08/18) |
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