FLASHで作図
 昨日の朝食時、妻との会話。
「子供の時、兎を数えるのに何匹、何羽のどちらだった?」と質問された。
 中学生の頃、兎を飼っていたことがあり、そう言えば一匹、二匹と呼ぶのが自然であるのになぜか一羽、二羽と数えるのだと教わったようなような気もしたが、はっきりしないので私はしばし無言。

妻が続けて言うには、
「私は今まで兎の数を一匹二匹と数えていたけれど、友達に、兎は一羽、二羽と数えるのが正しいと言われたの。昔は四足の動物を食べるのを禁止されていたけれども、兎の肉の味が鶏に似ているので兎の肉をこっそり食べる人が多く、それで兎を食べたとき、一羽食べたと言ってごまかしたそうよ」
ということであった。

 しかし妻が手じかの百科事典を引いてみたところ、そこには一匹と書いてあったそうだ。

 ところがこの後、今私が再読しているドストエフスキーの「罪と罰」の中に何と兎の数についての記述があるではないか。普通ならばそのまま読み過ごしてしまっただろうが、妻の話を聞いた直後だったので
その部分に釘付けになってしまったのである。

 それは第6部第2章の初めから三分の一ぐらいのところで、予審判事のポルフィーリイが主人公のラスコーリニコフと話している部分である。

「兎を百羽あつめても馬にはならないように、百の嫌疑も決して証拠にはならない・・・・・」
(池田健太郎訳 中央公論社 昭和38年)

 たまたまこの他にも別の翻訳者のものが手元にあったので調べてみるとこれがまた面白い。

「百匹の兎も、遂に一頭の馬をなす能はず、百の嫌疑も成す能はず、・・・・・・・・」
(中村白葉訳 新潮社 昭和3年)

 さらに新潮文庫版の米川正夫訳(昭和33年発行)では次のようになっている。
「百の兎が集つたって、1疋の馬を創ることが出来ん訳で、百の嫌疑も結局一つの証拠にはなりません。・・・」

 このような次第でどれが正しいのかさっぱり分からなくなってしまった。妻曰く
「きっと米川さんはそのとき、どちらにしていいか分からなくなってしまったので、ただ百と書いたのね。原書では何と書いてあるのでしょうね?」

「それは簡単明瞭。欧米語にはものを区別して数える名詞はない」
とそのときは答えておいたが、念のため学生時代に読んだ英語版を引っ張り出してみた。

「From a hundred rabbits you can'tmake a horse,a hundred suspicions don't make a proof, 」
簡明である。因みにこのあとに続く文に、これはイギリスの諺だと書かれている。

 別の百科事典にもあたってみた。
「農林省統計によれば過去10ヵ年間の飼育頭数は120万頭内外である。・・・・・6匹内外の子を産む・・・・」

 色々な情報を総合してみると大体次のようなことになるようだ。昔から仏教では戒律として四足の動物を食することを禁じていたので、人々は鳥や鶏の肉などを食べていた。しかし兎の肉は鶏の肉と同じような味がするのでこっそり食べる人が多くおり、その際おおっぴらに兎を食べたとは言えず、鳥を食べたと言う意味で一羽二羽と言っていた。

 しかし明治維新後、西洋では馬や牛の肉さえ食べているということが分かり、それ以降安心して兎を食べることが出来るようになり、したがって不自然な数え方をする習慣も時代とともに少なくなって来た。 まあどちらの言い方でもよいということだが、一匹二匹と言い方に統一されて行くのではないだろか。