’05年7月10日(大藪先生)


 大学在学中に銃を題材にした小説を発表しハードボイルド作家として華々しくデビュウーした大藪春彦という作家がいた。

 数年前に病没したがその作品を読んだことはないし、普通ならば特別に関心を持つということはなかった筈だが、彼の父親が北朝鮮の新義州中学校で私のクラスの担任教師だったことを何かの機会に偶然知ってから、大藪春彦という名前を記憶から消し去るわけにはいかなくなったのである。

 その教師は大藪静夫先生で担任教科は物象(物理)であった。背が小さかったので生意気盛りな悪童達から奉られたあだ名はは「ショウハイ」(中国語で子供の意味)であった。

 毎日一回は顔を見せた筈であるが、5月か6月には召集令状が来て出征してしまったので接触する時間が短かったせいもあり、どのような話をしてくれたか殆ど覚えていない。
 ただ化学教室のような教室で、晴れと曇りの区分を教わったことだけが妙に印象に残っていて、日記を書くときに今でもあの寒々した教室の輪郭がおぼろげに目に浮かんで来る。

 先生の住居は中学校の近くの雲井町というところにあったように思うが、当時小学校の3年生か4年生だった大藪春彦が家の周辺で遊んでいる姿を見たような見なかったような曖昧な記憶である。

 大藪春彦が北朝鮮で敗戦後から引き揚げるまでの苦難の生活について書いたものを読んだことがあるが、父親がいなかったため、生活の責が小学校3、4年生の長男である自分にかかって来たので、かっぱらいや盗みをやり、あるいはソ連軍の食料倉庫に盗みに這入って見つかり、首筋を剣で切りつけられたとか、それなりに苦労したようである。

 1年後に船で新義州から南朝鮮に上陸し、やっとの思いで日本にたどり着いたとのことであるが、郷里に帰って見ると父親は既に復員しており家族は死んでしまったものと考えていたということを聞き腹が立ったという。

 さらに、父親が自分だけ先に日本に帰って来ていて、家族を探そうともしなかったということに対しても父親に対する不信感を抱き続けていることのようであった。

 しかし客観的にみてそれは止むを得ないことであっただろうが、いずれにしても敗戦後、多くの人が引き揚げるまでの一年間、さまざまな辛苦を味わったのである。

  写真は戦後、日本で撮影された我等が大藪先生のものであるが、この写真に戦闘帽を被せてみても、あのとき、あの教室で私が接した先生のイメージとはどうしても一致しないのである。