渡辺安東省次長銃殺さる


 
私は日本の敗戦時、北朝鮮の新義州に近い中之島という鴨緑江河口の島に住んでいたが、直ぐ日本に引き揚げることが出来ず、結局、翌年の昭和21年10月12日にやっと新義州を出発することが出来た。

 乗せられた列車の座席、便所の扉、窓ガラス等は全部取り外されており、それらはソ連へ運ばれたということであった。

 列車は平穣(ピョンヤン)の少し先の沙里院までで、あとは徒歩で2日ばかり歩き、深夜の12時頃38度線を越え米軍管理下の南朝鮮に入った。
 開城(当時は38度線以南でアメリカの管轄下)のテント村で1週間ばかり過ごし、今度は有蓋ではあったが貨物列車に詰め込まれて夜行で釜山まで南下、興安丸に乗船、11月2日にやっと博多に上陸することが出来た。明日、新憲法が発布されるということを聞いたことを鮮明に記憶している。

 博多の引揚寮で手続きを済ませ、引揚列車で父の郷里に向かった。途中、瀬戸内海の沿岸を通るとき、朝鮮と比べて山々の緑色がより濃いのが非常に印象的であった。

 名古屋駅で中央線に乗り換えたが、そのとき我々の座席の前に白い布に包まれた遺骨箱を抱いた子供連れの女の人が座った。

 間もなくその人と母との間で引き揚げまでのお互いの境遇の話が始められた。

 「ある日、八路軍の人が来て、主人に『用事があるから一寸来てくれ』と言うことで出て行きましたがそれきり何の音沙汰もありませんでした。何日かして今度は『着替えの下着を持って××へ来てくれ』
と言うので行って見たら既に死んでいる主人の遺体を見せられました」

 私はそばでこの話を聴いていて
 「そうか、この人は、あの時、対岸の安東で大勢の中国人の前で銃殺された人の奥さんだったのか」
と思った。

 そして私は自分が目撃したそのときの対岸の様子をまざまざと想い浮かべたのである。


 当時住んでいた中之島の家は鴨緑江の河岸から100メートルぐらい引っ込んだところにあった。
表に出れば対岸の安東(旧満州国)は目の前で、左手約1キロメートル下流には鴨緑江の鉄橋を見ることが出来る場所である。

いつ日本に引揚げることが出来るのか全く見通しのないまま昭和20年の年を越そうとしていた。

 そのようなある日、12月中旬頃だったと思うが、いつものように日雇いの仕事に出かけるとき通る家の横の小高い丘に登ったとき、安東側の河原や堤防の上に沢山の人間がいるのが見られた。河幅7〜800メートルの向こうのことなので人間自体は指先程の大きさぐらいにしか見えず、ただ黒い塊の集団が大勢やがや騒然と屯しているという感じであった。

 何が始まるのだろうと暫く立ち止まって眺めていると、やがて銃声のような音と共に、ワーワーとい喚声が聞こえて来たが、対岸のこととて状況はよく分からずその場を立ち去った。

 このことがあってから2〜3日後、噂話として次のような話を聞かされた。

 旧満州国安東省省長の中国人と省次長の日本人を処刑するから鴨緑江河岸に集まれという布告が出され、大勢の群集の前でこの二人を銃殺したということである。中国人の省長は一発で即死したが、省次長の日本人は致命傷にならず、あわてて駆け寄った八路軍の兵士が刀で切りつけ、更に何発か発射してとどめを刺したという。

 この日本人の名前は渡邉という人とのこと。中之島から安東中学校に通っていた、私の小学校の上級生は、自分の同級生の父親であると言っていた。


 日本の敗戦によって旧満州国は蒋介石の国民党政府軍の管轄となった。しかし共通の敵として戦った目標の日本がなくなると、中国全土で毛沢東の率いる八路軍と国民党政府軍との間で再び内戦が始まり、10月下旬には安東に八路軍が入城して来た。 

 権力を掌握した公安当局は旧満州国の高級官僚を次々と逮捕し始めた。真っ先にその槍玉に挙げられたのが省長の中国人と省次長の渡辺蘭治氏であった。

 渡辺氏は日本の検事出身で乞われて満州国の行政官となり、敗戦時は安東省次長となっていた。

 12月中旬のある日、罪状を書いた木の札を立てた荷馬車に、二人は後ろ手に縛られて座らせられ安東市内を引き回された。

 鴨緑江の河岸に来ると、洋服、靴下などをを脱がされて下着のみになり、裸足の状態で砂の上に後ろ向きに座らせられ、背後から銃で撃たれた。

 その後の経緯は前回書いたので繰り返したくない。

 北朝鮮から引き揚げるまでの間に多くの辛い経験をしたが、この事件ほど少年時代の私に敗戦国民の悲哀、惨めさをつくづく感じさせたものはない。

 対岸の安東の河岸や堤防の上の群集の黒い塊が今でも目にちらつく。そして列車で私たちの前の座席に座って母と話をしていた未亡人の顔は今や定かには思い出せないが、しかし遺体に対面した時の気持ちはどんなものであったかと想像するのはつらい。