★「ガリバー旅行記」

散歩に出かけたとき時々立ち寄る古本屋で、子供の頃読んだ事のある「ガリバー旅行記」を見つけた。値段は出版社や翻訳者には申し訳のないほど安いたったの98円である。

 小人の国や大きな人間の国などでガリバーが体験した話は小学生だった私にも面白い読み物であっが、本来は著者のジョナサン・スウィフト(1667-1745)が、物語にかこつけて当時のイギリスの政治や社会を風刺した小説であるといわれているものである。

 「リリパット(小人国)渡航記」、「ブロブディナグ(大人国)渡航記」、「ラピュタ等他の島々(浮島又は飛島ー現代版UFOとでも言うべきか)、日本渡航記」、「フイヌム国(馬の国)渡航記」の4編から成る奇想天外な小説である。

 あらためて読み直してみたが、奇抜な発想が面白い。
 今ここでその概要を説明しても仕方がないので、興味を覚える方はご自分で読んで頂くとして、思わず吹き出さずにはおれなかったところを二三あげておきたいと思う。

 一つは「リリパット(小人国)」に滞在した約2年間、ガリバーは皇帝の覚え目出度く数々の恩寵にあずかっていたのだが、ある日皇后妃の御座所が火事になった。すわとばかり駆けつけて無事消火することが出来、ガリバー自身は大いに功績をあげたつもりになっていたのであるが、意に反して消火活動の方法が皇后妃の不興をかうことになってしまい、危うく死刑にされかかったところをなんとか「リリパット国」から脱出することが出来たというくだりである。何が原因で皇后妃のご機嫌を損じたか、それは読まれた方ご自身で確かめて頂くこととして、二番目は「ブロブディナング(大人国)」における見聞である。

 小人国の人間の身長は大体6インチ(約21センチ)程度であったのに対し、大人国ではガリバーの面倒を見てくれた小柄な9歳の娘の身長でさへ、40フィート(約12メートル)もある巨人の国なのである。

 この国でも国王、王妃から厚遇され、食事時には食卓のテーブルの上に乗せられて陪食の光栄に与かっつたりしたのであるが、これがガリバーにとっては不快嫌悪以外の何物でもなかったということである。

 王妃の掌に乗せられて目の前にするその肌の醜悪さにはとても堪えることが出来なかった。皮膚はざざらで凸凹しているし、丸盆大の黒子があちこちにある。遠くから離れて見ると絶世の美人であらせられる王妃も近くではとてもみられたもではないという感想のくだりである。

 小説の内容はこのくらいにして、私はこのガリバー旅行記の中に日本に関する記述があるのを見つけて大いに興味をそそられたのである。

 第3編の「ラピュタその他」に並んでわざわざ「日本渡航記」と銘打ち、1709年、日本に上陸して江戸から長崎まで旅行したということになっているのである。

 小説の大筋には全然関係のない日本がどうしてここに出てきたのか、また遠く離れたイギリスにおいて鎖国状態の日本の存在をどうしてスウィフトが知りえたのか、その辺の事情に大いに興味をそそられるのである。

 以下、日本に関する件は次回に。


★「ガリバー旅行記」(その2)

さて、ガリバーは偶然手に入れた帆船で、やっとのことでリリパット(小人国)を逃げ出し、航行中の英国商船に拾われて無事本国(英国)に帰り着くことが出来た。

ここで面白いのは、ガリバーと出遭ったイギリス商船は北海、南海を通って、日本からの帰航の途中であったと書かれていることである。さらにご丁寧なことに、それは1701年の9月26日であるとしてある.

夏目漱石は「文学評論」第4編「スウィフトと厭世文学」の中でこの「ガリバー旅行記」を取り上げている。

「・・・尤も作全体の上から云うて面白いのではない、又文学的に面白いのでもない、又風刺が面白いと云うのでもない。実は文学上から云うと、有っても無くても差支えない位な場所ではあるが、兎に角スウィフトが日本を『ガリバー旅行記』の中へ書き入れたところが日本人たる吾々から見れば頗る興味を惹くのである。・・・・」.

確かに日本に関する内容は蛇足に過ぎないようなことのように思われる。

1701年というと、日本では浅野内匠頭の刃傷事件があった年であり、また1639年以降、鎖国令によってオランダを除く外国船は一切出入りが出来ない状態になっていた筈で、スウィフトには勿論そのような知識はなかったのだろう。

しかしこのあとにも出て来る日本関係の内容から推測すると、当時のヨーロッパ諸国においても東洋の国「日本」としてかなり関心は持たれていたのではないかと考えることが出来そうである。

それはマルコ・ポーロの「東方見聞録」で黄金の国ジパングと書かれていることに影響されていたのかもしれない。

先に引用した夏目漱石の文の一つ手前に次の一文がある。

 「・・・ガリバーはこの此第3編に於てラピュタのみならず、他にいろいろのの国を巡回して居る。遠くわが日本にまで来て居るのだから偉い。但し彼はラピュタへ渡る前に既に日本の海賊船に出遭っているからジャパン(Japan)なる文字の出るのは第3編の始めからである。・・・・・・」

 ここで私は思わず心中快哉を叫んだのである。なぜかならば「ガリバー旅行記」の中で日本なる文字が始めて出て来るのは、先にあげたように第1編の終り近く、リリパット(小人国)から脱出の際、日本からの帰りの英国商船云々というところであるからである。

 大文豪の夏目漱石先生が見落としたこの事実に気付いたとき、私は実に痛快きわまる愉快な感覚を覚えたのである。

 次回は漱石の云う第3編の日本の海賊船云々について。

★日本人海賊船長

「ガリバー旅行記」と日本との次なる関りは、第3編の初めの部分である(前回書いたように、夏目漱石はここが初めてであると述べているが)。

 ガリバーの乗船した船が暴風雨に逢い流されているうちに、2艘の海賊船に追われ捕まってしまった。

 この2艘の海賊船のうち大きい方の船の船長が日本人だったことがガリバーに幸いしたのである。この船長はガリバーのところにやって来て片言のオランダ語で色々質問し(ガリバーはオランダ語も堪能であるようだ)、決して殺しはしないと約束した。

 ところが海賊の中にオランダ人が一人いた。ということは大部分の海賊は日本人だったということになる。

 ガリバーが英国人であることが分かるとこのオランダ人は散々悪態をつき、今に背中を括り合わせて海に放り込んでやるなどと言い出した。

 ガリバーが
「両国は同じクリスチャンのプロテスタントでありしかも盟邦関係にある誼みではないか、何とか船長にとりなしてくれないか」
と頼むと、オランダ人はますます怒り出し、「クリスティアノス」という言葉(ガリバーによれば日本語らしいというが意味不明だ)を盛んに繰り返し、海に放り込んでしまえなどとものすごい剣幕でまくしたてた。

 日本人の海賊の船長は「一旦殺さないと約束した以上は断じて駄目だ」といい、結局他の船員は皆海賊船の方に移されたが、ガリバーだけは4日分の食料を積んだカヌーに乗せられ、海に放り出されることになってしまったのである。

 このあとガリバーは「ラピュタ(浮島国ー現代版UFOのようなもの)」に行くことになるのであるが、それは割愛するとして、何故ここで日本人の海賊が登場して来るのだろうかと不思議な気がしないでもない。

 考えてみるに、徳川幕府によって外国への渡航を禁止される以前には、多くの日本人が東南アジヤ方面へ出かけて盛んに活躍していたことが遠くヨーロッパにまで伝えられていたのだろうか。ただそのイメージが海賊となってしまったのはおかしな気がするが・・・・・・・。

 ただ、一旦約束した以上は前言を翻さないなどと文中で言わせているところなどは武士道精神の「サムライ(=海賊)」などと皮肉たっぷりに諷刺したのかもかもしれない。

 また一方、海賊船にただ一人いたオランダ人がなぜガリバーを殺してしまえなどと云うほど憎んだのだろうか。

 これも17世紀初頭から始まったオランダ、イギリス両国の植民地獲得競争、貿易の主導権争い等の結果、ついには2度にわたる戦争となり、その結果、戦争終了後も相互に憎しみの感情が根強く残っていたのではないかと考えられるのである。

次回はガリバーの日本本土上陸について。

★第3編の最終章(11章)にはガリバーが日本に上陸し、江戸、長崎を経て英国に帰る経緯が書かれている。

先に「ガリバー旅行記」の中での日本人(海賊船)や日本についての記述はこの小説の本質にはあまり関係ないことであり、スウィフトの意向が那辺にあるのか全く
分からないと述べておいた。

しかし日本への渡航の記述が何の脈絡もなくここで突然に出て来たかというと実はそうではなくて、これ以前の第7章において、スウィフトはガリバーをして
故郷に帰る際は是非日本経由のコースをとってみたいと言わせており。スウィフト自身が日本という国に強い関心を持っていたのではないかと考えられるのである。

しかもご丁寧なことに、日本ではオランダ人以外のヨーロッパ人の入国を禁止しているということを知っていたものとみえて、ガリバ自身の身分をオランダ人と偽ることにしたので
ある。

1709年5月6日、日本帝国と親しい関係にあるラグナグ王国を出発、6日目に日本行きの船に乗ることが出来たが、航海に15日かかったとなっているので、
日本に上陸したのは5月の26日か27日頃ということになる。

そして日本の東南部にある「ザモスキ」という小さな港町に上陸したと書かれているが、夏目漱石の「文学評論ーガリバー旅行記」ではガリバーの上陸地点について
次のように述べている。

「それで最初上陸した地はクサモシ(Xamoschi)と云う日本の東南の極とあるから、或いは鹿児島のことかも知れない。」

ここに至って私は再び我が漱石先生の説に異を唱えるの光栄に浴するのである。

日本列島全体を眺めれば、確かに鹿児島は日本の東南に位置しているが、「ガリバー旅行記」には続いて
「町は、狭い海峡が北のほうへ向ってちょうど長い腕のように伸びている、その西端にあるわけだが、さらにその腕の北西部にあたるところに首府のエドがあった。」
の記述があるので、もう少し近視眼的にみて、上陸地点を東京湾の東南部とすれば横須賀とか横浜近辺と考えることも出来るのである。

原書の地名の「Xamoschi」を漱石は「クサモシ」と標記し、私の読んだ翻訳(中野好夫)では「ザモスキ」としているが、さてどちらをとるべきなのか、
いずれにしても両者に似かよった地名を想像することさえ出来ないが、

上陸した町の北西部にエドがあるということ、そして何よりも一番の疑問は鹿児島からエドに向かい、さらに長崎へ行くという経路の不自然さと旅行日数の問題である。

長崎に着いたのは1709年の6月9日ということになっているから上陸してからエド経由長崎まで12,3日の日数しかないことになるのである。

このような理由から私は敢えて漱石先生の説に異を唱え、ガリバーが上陸したのは鹿児島ではなくて三浦半島の東海岸沿いの町であろうと推測してみたのである。

さて、ガリバーは上陸すると税関の役人にラグナグ国王から日本の皇帝にあてた親書をみせる。

日本の皇帝とは幕府の徳川将軍のことであろうが、税関の役人が出て来るのが滑稽である。この手紙(親書)のことを聞いた町奉行はガリバーを国賓扱いにし、

馬車、随員をつけて「エド」まで送り届けてくれたのである。

、スウィフトは、日本と外国との交易は長崎港でオランダ人にしか許されていないが、外国人の入国までもが禁止されていたということは知らなかったように
思われる。

「エド」に着いてからの経緯は次回に。


★ガリバー、長崎に至る

「エド」に着いたガリバーは皇帝(徳川将軍)に拝謁を許された。
その際、望むことがあればなんでも聞きとどけてつかわそうと言われたので
「自分は船が難破したオランダ商人で、こうしてやっと日本まで辿り着くことが出来た。ヨーロッパへ帰りたいのでどうか「ナンガサク(長崎のことと思われる)」まで送り届けて欲しい、またわが同胞たちに課せられる十字架踏みの儀式だけは免除していただきたい」と申し出たのである。

 十字架踏みの儀式とは17世紀前半、鎖国令実施時にカトリック教信者に対して行われた「踏絵」のことだろうが、これを聞いた陛下は、そんなことを言うオランダ人は今までに一人もいなかった。お前は本当にオランダ人かと逆に疑われることになったが、そこは無事切り抜け、十字架を踏むことを免除され、
1709年6月9日、さまざまの難渋のあげく「ナンガサク」にたどり着くことが出来たとなっている。

 当時、唯一日本に入国を許していたオランダ人にも「踏絵」を強要したのだろうか。また「エド」か「ナンガサク」までを2週間ばかりで旅行したことにしているのも、東海道53次が公称125里(500キロ)と言われているところから考えて少々疑問に思うのだが、それは兎も角としてスウィフトが日本に関する事柄をわざわざ「ガリバー旅行記」に書き加えたという意味合いの方が大きいと私には思われるのである。

「ナンガサク」でガリバーはオランダ人の船長に頼んで船に乗せてもらうことになるが、この船長が、ガリバーはまだ踏絵の儀式をすませていないとわざわざ役人に言いつけに行った。実にいやなやつだと憤慨しているが、当時イギリス人とオランダ人の両者の間の感情はかなり悪かったことがここでも窺い知ることが出来て面白い。

「ガリバー旅行記」に書かれている日本関係の記述は以上のとおりであるが、そして前にも言ったようにこれらは小説の筋の本質には関係のない、どうでもいいことなのだが、それでも遥か300年の昔、日本では島国で太平の夢を貪っていた時代、すでに日本という国の情報ががこのような形でヨーロッパの国々の人たちに伝わっていたということを知ったのは私にとって感慨深いものがあるのである。

★ガリバー旅行記」とYAHOO

 前回まで、「ガリバー旅行記」の中に書かれている日本に関する事柄について書いて来た。しかしこれらは何度も言うように、この小説の内容あるいは物語の進行には何ら関係のないどうでもいいことであって、たまたま私は読んでいて大いに興味をそそられ、夏目漱石まで引っ張り出して来て、自分だけは何か大発見をしたように考えているだけのことに過ぎないのである。

 インターネットをやっている人で、日本では検索サイトとしてトップの「YAHOO」を知らない人はいないであろうが、今回はこの「YAHOO]という名称について「ガリバー旅行記」との関連で書いて見たい。 

 この小説が書かれた18世紀以降、「ガリバー旅行記」は英国文学史上の傑作とされているそうである。

 文学作品として優れていることは勿論だろうが、ひとつは政治家でもあったスウィフトが「ガリバー旅行記」を借りて当時の国王、政治家などを痛烈に皮肉ったり諷刺していること、また第4編の「Houyhnhnmus(フーインムスまたはフイヌム)国渡航記」で馬を主人公に仕立て、人間を馬の下に隷属する下等下劣な動物として描き、厭世感を強烈に表現していることなどがその理由だろうと思う。

 しかしここで私が言いたいのは、例によって「ガリバー旅行記」を論ずる文学論ではない。ガリバーが下等な動物として取り上げている人間を何故「YAHOO(ヤフー)」と名付けたのかということである。

 たとえば「ガリバー旅行記」の中では「YAHOO]について次のように書かれている。

「なにか動物が上に5,6匹と、またこれも同じ種類の動物が、1、2匹、樹の上に登っているのを見た。その形というのがまたひどく奇妙な醜いもので、・・・・・・・。頭と胸はいちめんに濃い毛(縮れたのもまっすぐなものもある)が密生している。山羊のような髯をはやしている上に、背中から足首の前部へかけては、長い毛並みが深々と生えているが、その他の部分は全部無毛で、黄褐色の皮膚が、裸で見えている。尻尾もなければ、臀部にも全く毛はない・・・・・・・・・。我輩ずいぶん旅行もしたが、実際これほど不快な、またこれほど見るからに激しい反感を感じた動物はなかった。云々」

 このほかにもこれら「YAHOO(ヤフー)」は、狡猾で、腹黒で、不信で、しかも復讐心が強い。身体は逞しくて頑丈だが、性根は臆病だ、だもんでまた傲慢、卑劣、残忍でもある等々、いやはや凄まじいばかりの人間に対する悪口雑言の限りである。

 「YAHOO]を辞書で引いてみると第一義に「SwiftのGulliver's Travelsの中の人間の形をし獣」とあり、第2義として「獣のような人間、無骨者、田舎者」となっている。

 スウィフトがこの人間に類した動物を「YAHOO」と命名した当時の英国に、既に「YAHOO]という単語が存在していて、それを使って小説の中で人間を諷刺しようとしたのか、あるいはスウィフトが小説の中で創作した下等動物としての人間を「YAHOO]と命名したために、辞書にあるように「獣のような人間」という意味として使われるようになったのか、その辺はどちらでも構わないと思うのであるが、少し勘ぐってみて、これがどうして検索サイトの名称となっているのか、あるいはどうして「YAHOO]と名付けたのかということを考えると、少々気になって来るということなのである。

 オークションなどで品物が届かないかとか、不良品が来たとか、金を払わないとか、不良サイトがあるとか、時々ニュースを賑わすことがあるが、この会社の設立者は、「ポータル・サイトはそんなに立派なものではありませんよ」という意味合いを込めてこのように名付けたのではないかとふと邪推してみると、これはこれでなかなか意味深長となって来るのではないだろうか。

 もしこの駄文が関係者の目にでも触れて、「YAHOO]なる命名の理由を知ることが出来ればいいなあというのが当面の私の願いなのである。

★前々回(昨年の3月のことで、随分昔のことのような気がして気が引ける)、スウィフトが、馬の国に住んでいるという人間に類した動物を「yahoo]と命名したことに触れておいたが、その由来についてはよく分からないとしておいた。

 最近、阿刀田高の「あなたの知らないガリヴァー旅行記」の中の次の一文にお目にかかった。

「ヤフーという命名は「ヤー」(yah)と「ウッフ」(ugh)という二つの英語からスウィフトが考案したものだとか。英語辞典を調べると「ヤー」は ”不快、あざけりなどをあらわす発声”「ウッフ」は ”嫌悪、軽蔑、恐怖などを示す発声”と記してある。」

これで見ると「yahoo」はスウィフト自身の発明語と結論付けてもよさそうである。

それにしてもスウィフトの痛烈な人間軽蔑の精神にはただただあきれたり感心するばかりである。

「ガリヴァー旅行記」の「yahoo」はこれで一件落着として、ポータルサイトの「YAHOO」の命名の件については未だによく分からない。

今朝、インターネットを開けてみたら見慣れない画面だったので一瞬面食らったが、新年に際してのリニューアルと判別するまでに若干の時間を要したのは年齢のせいなのかなどと考えた次第。

今年は長続きしそうなテーマに取り組もうと考えているので、このブログもサボらずに続けられるかもしれない。