外国文学を本当に味わうためには、原書で読まなければならないとよく言われる。それはそのとおりで、誤訳は論外としても、翻訳者の学識、あるいは母国語に対する造詣の深さ等によって意味合いが微妙に違ってくるのは、止むを得ないことである。

 況や詩の翻訳となると、これはもう殆ど不可能に近い芸になってしまうのではないだろうか。

 私自身は、詩集などにあまり親しんだことはないが、上田敏の「海潮音」の中の数編の訳詩などは、翻訳というよりは、むしろ訳者自身の創作詩とでも言ってよいほどの名訳ではないかと思う。

 例えば、ドイツの叙情詩人、Wilhelm Arent(1864-?)の「わすれなぐさ」は次のようになっている。

 ながれのきしのひともとは、みそらのいろのみづあさぎ、
 なみ、ことごとく、くちづけし はた、ことごとく、わすれゆく

 奥深い山間いの小川の岸辺にひっそりとつつましく青い花をつけて咲いている「勿忘草」。

 その勿忘草に水しぶきが次から次へとふりかかり、そして流れ去って行く。森閑とした山中の情景が一幅の画となって目の前に浮かんでくるようである。

 次の一編は、昔使ったドイツ語の学習書に載っていたものである(Fallersleben 星野慎一訳)。

 あをのにさけるひともとの みめうるはしきののはなよ
 はなのひとみはさやかなる あをくすずしきそらのいろ 
 はなはおほくをかたらねど かたることばはことごとく 
 いつもかはらぬしらべかな われをわすれそわすれそと

 原作者の発想の視点が全く異なっているので詩そのものから受ける印象は当然違ってくる。

 同じく大自然の中に位置している「勿忘草」であっても、前者の場合は全体の中の一部分として捉えながら、一種の哀切感を訴えているようである。

 これに対して後者の詩の場合は、悲痛な叫び声そのものが前面に押し出されているようで、むしろ圧倒されてしまうように思うが、しかしそれでも読んでいて何かしらごつごつした感じがするのを否めないのは、訳者の違いとでもしかいいようがないのではなかろうか。


「海潮音」に収められている約60篇の詩のほとんどは長編の叙事詩であり、且つ難解である。

それに比べると前回のような短い叙情詩の方は直感的に分かりやすい。

   ○ 落葉(らくえふ)   Paul Verlaine(1844-96) (フランスの象徴派の詩人)

秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて
     ひたぶるにうら悲し。

鐘のおとに 胸ふたぎ 色かへて 涙ぐむ
     過ぎし日のおもいでや。

げにわれは うらぶれて ここかしこ さだめなく
     とび散らふ 落葉(おちば)かな。

これも高校の教科書に掲載されていたように思うが、その当時は秋の季節の寂しさを表現している感傷的な調べが気に入り、それ以来度々口ずさむようになった忘れ難い詩である。

今あらためて読み直してみると、人生の盛りを過ぎてしまった失意の我が身を落ち葉になぞらえ、その悲哀をしみじみと表現しているように感じられる情緒に共感を覚えるのである。


次の詩は、秋の侘しさを思い浮かべさせるようであり、あるいは憂いに満ちている人々を愛しんでいるようでもあり、心定かに決めかねるとしか言いようのない気がする詩である。

    ○  秋   Eugen Croissant(1860-1931) ドイツの詩人

けふつくづくと眺むれば、悲(かなしみ)の色口にあり。
たれもつらくはあたらぬを、なぜに心の悲しめる。

秋風わたる青木立 葉なみふるひて地にしきぬ。
きみが心のわかい夢 秋の葉となり落ちにけむ。

引き続き「海潮音」より一編。

    
 ○  春の朝        Robert Browning 1812-89   イギリスの詩人

 時は春、日は朝(あした)、朝(あした)は七時、
 片岡に露みちて、揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
 蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、神、そらに知ろしめす。
 すべて世は事も無し。


 中学生の頃、麦畑で祖母の手伝いをしたことを思い出す。ようやく雪が消える3月中旬には麦踏みの作業。黄いろい色をしていた大麦の葉が緑色に変わり、株に成長しやがて穂をつけ始める頃には畝間で雲雀の巣を見つけたこともあった。

 梅と桜と桃の花が一斉に咲きそろう信州の遅い春の日差しを浴びて、うっすらと滲み出る汗を拭いつつ
一休みするとき、心地よい疲労感が残る。

 今耕しおこしたばかりの畑の土は黒々としており、かすんだ空の果ての、まだ雪の残っている遠くの山々を眺めたとき、全ては静かで平穏でのどかで何も考えない、そのような少年時代もあったのである。

 ハインリッヒ・ハイネは少年時代にフランス革命の思想の影響を受け、のちにフランスに亡命し詩の創作活動により世界的な名声を得たドイツ生まれの詩人であるが、「海潮音」には次の一編があるのみである。 

         ○  花のをとめ       Heinrich Heine 1797-1856 ドイツの詩人

   妙(たへ)に清らの、あゝ、わが児よ、つつづくみれば、そぞろ、あはれ、
   かしらや撫でて、花の身の いつまでも、かくは清らなれと、
   いつまでも、かくは妙にあれと、いのらまし、花のわがめぐしご。

 何時までも清く美しくあれという親心を詠んだ詩には違いないが、その反面この児の将来にはどのような運命が待ち設けているのであろうか、それを考えると単純に可愛いとばかり言ってもおれないという心情が滲み出ているような気もするのである。

 この詩が他の訳者ではどのようになっているのか、手元にあるハイネ詩集(片山俊彦訳)を調べてみたが、残念ながら掲載されていない。


          ○ 秋の夜ふけの雨と風

   秋の夜ふけの雨と風 外(と)の面(も)に狂ふ音きこゆ、
   いづこに住むや、気のよわき あはれなる子よ?

   窗邊(まどべ)に倚れるすがた見ゆ、さびしき部屋の窗に倚り
   つぶらまなこに涙溜め 闇を見つむるすがた眼に見ゆ。
  
 上の詩と一脈相通ずるようなところがあるように思える詩である。今、打ち拉がれ思い悩んでいるかもしれない我が児の姿を想像するとたまらなく悲しくなる、そのような親の気持ちだろうか。

 物質的に豊かになった日本の風土の中で嬉々として戯れ過ごしている若者達よ、君たちの前途にどのような試練、過酷な人生が立ちはだかろうとしているのか、神のみぞ知る運命について、少しは真剣に考えてもいいのではないかと思う。

  ○  青き両つの君が眼の (Mit deinen blauen Augen) ハインリッヒ・ハイネ

  青き両(ふた)つの君が眼の ほのぼのわれを見つむれば
  心そぞろに夢みつつ ことばも出でじ我が口ゆ。

  青き両(ふた)つの君が眼は わがまなかひに漂いてー
  濃青(こあお)の夢の海となり わが心にぞ打ち寄する。

 最近この詩を読み返してみたが、過去という深い霧の中に消えかけていたおぼろげな記憶が、突如眼前に再び現れ出て来たという印象を抱いたのである。

 一般的に言って、欧米の作家たちの作品には直裁的な表現形式をとるものが多いということが言えるように思う。大雑把に言えばそれは狩猟民族たる欧米人と、農耕民族であった日本人との違いから来るものであると、昔、世界史の講義で聞いたことがある。

 肉食民族のどぎつさと、草食民族の淡白さとの違いとでもいうべきか。

 次の島崎藤村の「初恋」は、七五調の流れるようなリズム感も心地よいが、口ずさむほどに、感傷的な淡い恋心をうたいあげた詩人の心が胸に迫って来るようである。

     ○  「初恋」    島崎藤村

  まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき
  前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり

  やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは
  薄紅の秋の実に 人こひ初めしはじめなり

  わがこころなきためいきの その髪の毛にかかるとき
  たのしき恋の盃を 君が情に酌みしかな

  林檎畑の樹の下に おのづからなる細道は
  誰が踏みそめしかたみぞと 問ひたまふこそこひしけれ

 ハイネの詩は直線的に迫ってくる熱情である。藤村の「初恋」は一幅の画である。遠くてもよい、近くてもよい、その画の前に立ったとき、私たちは遠く彼方に消え去ってしまった青春の想いに引き戻されるのである。


     ○  君わがかたへを   Heinrich Heine(1797-1856)

  君わがかたへを追い抜きて進むとき その裾のわづかにわれに触れたれば
  わが心はときめきて 美しき君が足跡を急ぎて追ひぬ。

  やがて君振り向きて その円ら眼のつよくわれを見つめたれば
  わが心、居すくみ 君があと追ひ行きも得ず。 (Wenn du mir)

 前回述べたように、この詩などもあまりにも直情的で、藤村の詩に感じられる、ほのぼのとして夢見心地の世界に誘われるような感じのする趣がないのは如何にも味気ない気がしてならない。

 この詩にお目にかかったとき、まず思い浮かべたのは、詩とは全く関係のない、漱石の小説「三四郎」の中の、三四郎と美禰子の二回目の出会いの場面である。

 三四郎は郷里の遠い親戚筋にあたる理学士の野々宮に頼まれて、野々宮の妹が入院している病院に届けものを持って行くことになった。

 用事をすませ部屋を出て正面玄関ののぼり口まで来たとき、その向こうに「池の女」がいるのに気付いた。三四郎と女は、いずれは廊下ですれ違わなければならない。

 「・・・・・眼を伏せて二足ばかり三四郎に近付いた時、突然首を少し後に引いて、まともに男を見た。二重瞼の切長の落付いた格好である。・・・・・・・この歯とこの顔色とは三四郎に取って忘れべからざる対照であった。・・・・女は腰を曲めた。・・・・・・・・

 『一寸伺いますが・・・』
と云う声が白い歯の間から出た。きりりとしている。然し鷹揚である。・・・・・・・・・・・」

 このようにして三四郎は「池の女」から、今自分が出て来たばかりの野々宮の妹のいる病室の場所を聞かれた。

 「・・・・・『その角を曲って突き当たって、又左へ曲って、二番目の右側です』・・・・・・・

 三四郎は、立ったまま、女の後姿を見守っている。女は角へ来た。曲がろうとする途端に振り返った。三四郎は赤面するばかりに狼狽した。・・・・」

 以上が「三四郎」の中の「池の女」、即ち美禰子と三四郎の出会いの情景なのであるが、私はこの場面を読む度に、その時の状況を映画の中の一シーンの如く想像し、思わず吹き出さずにはおれないのである。

 馬鹿面をしてあんぐりと口を開けて見とれていたというわけでもないだろうが、しかしそれに近い状況だっただろうから、周章狼狽、赤面の至り、恥ずかしいことこの上ないという気持ちは分かり過ぎるほど分かる。

 三回目の出会いは、天長節(時代は明治)の日、広田先生の引越しの手伝いに行ったときである。二階の窓で青空を眺めながら話をしたのが親しくなるきっかけとなる。この場面の情景は画のように美しいと思う。もし私が映画監督ならどのように演出したらいいのかななどとと考える。

 以上、ハイネの詩とは何の関係もないことを書いてしまったが、満更無関係というわけでもなさそうである。

 病院の玄関を出てから三四郎は気が付いた。しまった、一緒について行って案内をすればよかった。残念なことをした。しかし今更取って返す勇気はなかった。

 とまあ、極めて散文的ではあるが、しかし何がしかの詩情を私は感ずるのである。少なくともハイネの詩のようなどぎつさはない。

    ○  春の苑 くれなひにほう 桃の花
        した照る道に 出で立つ をとめ

 万葉集の巻19にある大友家持の短歌である。

 万葉集の短歌の何編かは、中学、高校の教科書に出ていたのが記憶にある程度だが、この短歌は万葉秀歌下巻(斉藤茂吉ー岩波書店)で見つけて特に印象深く記憶しているもののひとつである。

 何も難しい意味はない、桃の花が紅色に満開に咲いている樹の下に一人の乙女が立っている、ただそれだけのことである。高松塚の壁画に描かれているような服装をした乙女が桃の木の下に立っているという姿をイメージすればいいのだろうか。

 春になると、北朝鮮にいる時に住んでいた家の庭に十数本の桃の木があったことを思い出すが、それは少年時代のおぼろげな記憶である。

 しかし毎年咲く紅色の桃の花を見る度に、霞の彼方にあったはずの、満開に咲いていた桃の花の風景が、一転、濃艶な桃園と化して眼前に現れて来るのである。

 それは後年、家持のこの短歌を知ることによって、飛鳥美人を桃の樹の下に置いてみたらという発想から来る印象からかもしれない。

    ○  マイアー・フェルスター作 「アルト ハイデルベルク」の中で詠まれる詩である。

    遠き国より はるばると 
    ネカーの河の なつかしき 
    岸に来ませし 我君に
    今ぞさヽげん この春の 
    いと美はしき 花飾
    いざや入りませ 我が家に
    されど去ります 日もあらば 
    忘れたまふな 若き日の
    ハイデルベルクの 学校(まなびや)の
    幸多き日の 思ひ出を。


 ザクセン・カルスブルク王国の公子カル・ハインリヒは、ハイデルベルク大学で1年間の学生生活を送ることになった。

 同行した侍従は公子には相応しくない粗末な下宿屋だといって反対したが、公子が下宿屋に到着したとき、手伝いに来ていた、主人の姪のケーティが歓迎の詩を詠み、花束を手渡す。

 公子カル・ハインリヒとケーティとの淡い恋愛感情を中心に展開する楽しく明るさに満ちた学生生活は、古き良き時代を偲ぶのに十分であり、時代、環境は大きく違うものの、個人的には自分自身の学生生活と重なり合い、作品の中に流れている一種の哀感とともに、ひしひしと胸に迫り来るものがあるのである。