海 尻 城
う み じ り じ ょ う

武田氏佐久侵攻の最初の拠点地

かがり火   海尻城の入り口   かがり火
海尻城入り口、本丸まで約5分ほど

海尻城跡は東に流れる千曲川と八ヶ岳より東流する大月川との合流点に位置する、山の尾根を利用した山城です。
東に【千曲川】、北に【大月川】を眼下にし、南は【釜の前】と云う、腰まで埋まる湿地で、自然の堀となっていました。

海尻城山上
海尻城図
城の構えは尾根の突端の平地が本丸
(写真上)
東に40メートルほど下った今の海尻集落のある平地が二の丸
三の丸は、今の医王院から諏訪神社におよぶ台地です。
海尻城より男山遠望
築城の時期は、はっきりしないようですが、永正・大永(1.504〜1.527年)の頃より甲信の争いがあるので、北信の村上義清が甲勢(武田氏)に備える為に、築城したものと思われます。
 何れにしても甲信両勢力にとっては、欠く事の出来ない拠点でありました。



海尻城の合戦は幾度もあったと伝えられています。

 伝説  村上氏幕下 薬師寺右近らがこの城を守っていたが、天文9年(1.540)正月16日武田氏の将 板垣信形の知略をもってこの城を開かせ、武田信玄は小山田備中守昌行にこの城を守らせた。

同年12月海尻の地士らの一揆が村上氏に意を通し、声援を得てこの城を囲み攻めた。 村上氏の将 額岸寺和泉光氏らが二の丸まで攻めおとしたが、本丸は昌行固く守り。
すでに12月晦日、甲州より武田の援軍の到着により村上勢は敗退した。

瀬下敬忠 【千曲の真砂】から
世に言う海尻の合戦です。


天文15年(1546)、信玄がまたこの城を抜いて北(佐久)へ侵攻してからは、信州攻防の主戦場は北佐久や小県地方へ移っていった。

【南佐久郡誌】他



武田信玄(晴信)の初陣
海ノ口城

海ノ口城跡は背後は堀が深く、城構えはすこぶる簡単で規模も小さい。 山城で、見張りの城、海尻城の出城ではなかろうか。

甲陽軍艦』には

天文5年(1.536) 11月、武田信玄の父、信虎が八千の軍勢をもって34日間攻めたが、剛勇で聞こえた平賀源心はよく戦って落ちず、大雪になつたため 信虎は引き揚げることにした。
 その時、16歳の信玄は(武田信虎の嫡男太郎は元服して晴信を名のる)しんがりを願って途中から引き返す。手兵三百とともに城を急襲した。
 源心は武田軍の退陣をみて城兵と酒宴をもよおし、酔いしれていたからむさむざと討ち取られ、信玄には、これが初陣の手柄となった。



昔から伝えられていること..........

正月に海尻の多くの井出一族では、門松を外に飾らず家の中に飾ります。
また三が日はお餅を食べないでうどん等を食べ、4日からお雑煮にして食べるそうです。

言い伝えでは、12月に武田軍が海尻城を攻撃したが落ちず、正月を迎えることになり停戦となりました。
海尻城では正月の準備、餅つきをしながら祝宴を催しておりました。そのとき、約束を破り途中から引き返した武田軍により、海尻城兵は酔いしれていたため落城したといわれています。

この事を戒めとして今現在まで伝えつがれているのだと思います。


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