ドミンゴさん 現象について(科学の立場から、如来蔵批判) 2009,12,14,
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曽我逸郎様、貴サイトの仏教についての議論はレベルが高く、拝読させて戴いております。
私は、科学の立場から龍樹の空を勉強しております。私見を以下に記します。
曽我から ドミンゴさんへ 空、人無我、法無我 2010,1,6,
拝啓
遅い返事になり、申しわけありません。
さっそく思ったことを書きます。
1 として書いておられる「全ては現象のみで、如何なる実体をも認めない。」というお考えには、私も100%同意します。
2 の「如来蔵は、「空性、法性、仏性、真如」と呼ばれる真実在を持つので、竜樹の空に反する」とおっしゃる点にも、同じ考えでおります。
3 については、「現代と仏教」という本を読んでおりませんのでコメントが難しいのですが、「批判仏教」とあるのが、松本史朗先生他の駒沢大学グループのことだとすると、『縁起と空』を筆頭に、私も大変興奮して読みました。
なにより、「仏教」の伝統的権威だからといって訳も分からないままありがたがり鵜呑みにしてはいけない、意味不明な言明に対しては意味不明だといわねばならない、という姿勢に目を開かれました。
読んでからかなり時間が経っているので自分でも定かではなくなっていますが、たくさんの影響を受けていると思います。たとえば、如来蔵、空性、法性、仏性、真如といった言葉は、実在をイメージさせかねない危険な言葉であると考えておりますが、これも影響のひとつでありましょう。
この件に関しては、私は、「空性」のみならず「空」という言葉も危険だと感じています。サンスクリットなり、インドの原語なら、「ウツロ」「空っぽ」という述語的なニュアンスがしっかりとあったと思いますが、漢訳されて「クウ」となると、魅惑的で形而上的な「なにか」をイメージさせかねない。他ならぬ私自身が、空を根本エネルギーと考え、梵我一如的に捉えておりました。HPに今も掲載している「あたりまえのことを方便とする般若経」に見ていただけるとおりです。それゆえ、今では「空」という言葉は避けて、「無常=無我=縁起」と言っております。「無常=無我=縁起」という言い方であれば、神秘化され実体視される危険性がほとんどなくなると思うからです。
もうひとつ、これを書きながら感じることは、本来の「空」、あるいは無常=無我=縁起は、外界の事物のこととしてよりも、まず第一に、自分自身のこととして捉えるべきではないか、という点です。
「あたりまえ〜般若経」当時の私自身の空理解が、まず初めに外界の事物を空というエネルギーが展開した自性のない現象として捉えることでした。そういう形で外界の事物の「空」を理解したうえで、次にそれを自分自身の「空」まで手繰り寄せようとし、そういう方法で自分が「空」であることを理解しようとしていました。
しかし、本来は、人無我が先であって、法無我は問題にならないか、なったとしても人無我の後の余分な展開です。釈尊の教えられた方法も、ひたすら自分を整え、観察することだったと思います。外界の事物への関心はほとんどありません。
確かに、自然科学の発達した現代においては、相対論や量子論のおかげで、釈尊の時代よりはるかに法無我がイメージしやすくなっているように感じます。物理学を手がかりに法無我から入っていくのは、現代人には有効な方便なのかもしれません。私自身がそうだった訳ですし…。
しかし、釈尊の教えの核心は、あくまで「自分自身が無常=無我=縁起であることの納得」であり、そのことによって、いくら執着しても不毛なことに執着して無駄な努力を重ね苦を作り続けてきた愚かさに気づくこと、だと思います。
法無我より人無我。自分が無常=無我=縁起であることをしっかりと見つめることが大切かと思います。
(そのための方便としては、脳科学や認知科学も使えるのではないか、と感じています。)
またご意見お聞かせ下さい。ありがとうございました。
敬具
ドミンゴ様
2010年1月6日 曽我逸郎