suganoさん 「言葉の森に迷い込んでおられるようですね」 2005,2,21,

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読ませていただきました。感謝です。
感想としては、言葉の森に迷い込んでおられるようですね。

ヘッセの言葉を紹介しましょう。

あらゆる真理についてその反対も同様に真実だということだ!

つまり、一つの真理は常に、一面である場合にだけ、表現され、ことばに含まれるのだ。

思想でもって考えられ、ことばでもって言われ得ることは、すべて一面的で半分だ。

すべては、全体を欠き、統一を欠いている。

崇高なゴータマが世界について説教した時、彼はそれを輪廻と涅槃に、

迷いと真、悩みと解脱とに分けなければならなかった。

ほかにしょうがないのだ。

教えようと欲するものにとっては、ほかに道がないのだ。

     内面への道 ≪シッダールタ≫ 高橋健二訳 新潮社-p167

http://blog.goo.ne.jp/sugano-m/


suganoさんから再び  2005,2,25,

【月を差す指はどれか?】

全てのもの(ことばを含む)が月を差す指なんですよ。
良きと思われることからも、悪しきと思われることからも学ぶのですから。

以下を紹介します。
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親鸞がその『数行信證』(化身土巻)に『大智度論』の文を引用して、
「人指を以て月を指し以て我を示教するに、指を看視して月を視ざるが如し。

人語りて言はん、我指を以て月を指し汝に之を知らしむるに、汝何ぞ指を看て月を視ざるやと。

此れまた是の如し。語は義の指と為す、語は義に非ざるなり。

此を以ての故に語に依るべからず」


曽我から suganoさんへ  2005,2,28,

拝啓

 お返事遅くなり申し訳ありません。首を突っ込んでいた世俗的用件、一応の区切りがつきました。

 ヘッセには、若い頃随分大きな影響を受けました。「シッダールタ」よりも、「デミアン」や「荒野の狼」でしたが、、。

 言葉の問題についてメールを頂いておりました。
 言葉につきましては、私は、言葉だけで釈尊の教えを了解することができるとは思っていませんが、言葉をないがしろにしても、けして釈尊の教えに行きつくことはできないと思っています。まず正見(正しい見解)を言葉で学び、考え、理解すること、その上で残りの七つの正道、戒定慧が必要だと考えています。

> 全てのもの(ことばを含む)が月を差す指なんですよ。

 例えば、「ポワはこれ以上悪業を積ませないための慈悲の行いである」と教えられれば、それも「月を差す指」でしょうか? 正しく月を差す指と、まったく違う方向を差している「自称月を差す指」があるのです。騙されたら大変なことになりかねません。

> 良きと思われることからも、悪しきと思われることからも学ぶのですから。

 正しく学ぶには、「良き」指と「悪しき」指を分別しなければなりません。言葉で批判的に検討すること抜きにそれが可能でしょうか?
 「煩悩即菩提」とか書かれた指に従って、ネオンの月を掲げたいかがわしい店の虜になる人もいるかもしれません。

 それに、「語に依るべからず」という教えが仮に正しいとしても、その教えを語に依らずに学び、語に依らずに説くことは可能でしょうか?

 HPの意見交換のページ<高橋哲夫さん 「月」を見ないで「指」を見ていませんか(2004,10,9,)>でもほぼ同じ問題を取り扱っております。そこではいくつか経典の引用もしながら、もっと詳しく論じておりますので、是非ご一読下さいますようお願い申し上げます。

 またご意見、ご批判お聞かせ下さい。
                            敬具
sugano様
      2005、2、28、
                          曽我逸郎


suganoさんから再び  2005,2,28,

> それに、「語に依るべからず」という教えが仮に正しいとしても、その教えを語に依らずに学び、語に依らずに説くことは可能でしょうか?
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1078 (ブッダが答えた)、
「ナンダよ。世のなかで、真理に達した人たちは、(哲学的)見解によっても、伝承の学問によっても、知識によっても聖者とは言わない。(煩悩の魔)軍を撃破して、苦悩なく、望むことなく行う人々、──かれらこそ聖者である、とわたしは言う。」 スッタニパータ<中村 元訳>
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貴方は、語らずして感銘を受ける人に出会ったことはありませんか。

物言わぬ光景に感銘を受けたことは有りませんか。

物言わぬ、ペットに和まされるのはなぜでしょう。

ただ、その人がいるだけで、場が和になる人に出会ったことはありませんか。

何気ない一言が人を穏やかにするのを感じたことはありませんか。

「語に依らずに説く」。それこそが、ブッダの教えだと思っています。

今、この瞬間生きているものの間には、言葉以上の伝達方法を持っていませんか。

死者が後生の人に教え伝える方法・一瞬の時間と場所を共有していない者に伝える方法は残念ながら「ことば」しか無いんだ。

繰返しブッダが言っているのは、今この瞬間の「ありのままを見よ!」言っているのでは。

そんな人に、私も成りたい。


曽我から suganoさんへ  2005,3,2,

拝啓

 スッタニパータは、おそらく私への反証として引用されたのだと思います。
 しかし、私は、哲学的見解や学問や知識だけで釈尊の教えを腑に落ちて納得できるなどと申し上げた覚えはありません。最初に「正見」、釈尊の教えを言葉で学んで正しい見解を持つことが絶対に必要であると申しているだけです。その上で、他の七つの正道や戒・定・慧の三学によって、それを自分のこととして腹に落ちて納得するのです。前のメールに書いたとおりです。
 釈尊の残してくださった言葉をないがしろにしていい訳はありません。

 風景やペットや癒し系のいい人などと、釈尊の教えをいっしょにはできないと思います。

> 死者が後生の人に教え伝える方法・一瞬の時間と場所を共有していない者に伝える方法は残念ながら「ことば」しか無いんだ。

 仰るとおりです。2004,10,9,の高橋さんとのやりとりにも書きましたが、釈尊御存命の時にお近くで教えを受けることができていれば、指など見ずに差してくださる月を見ればよかったでしょう。しかし、残念ながら2500年の時を隔てた今では、言葉だけが釈尊に学ぶためのほとんど唯一の手掛かりです。その言葉も、2500年の間に、おびただしい間違った言葉が混ざり込み、その中から釈尊の言葉を選び出すのは並大抵のことではありません。
 「言葉に依るな」というのも、そのような後から混ざり込んだ<言葉>だと思います。

> 今この瞬間の「ありのままを見よ!」

 suganoさんは、「今この瞬間のありのまま」をどのようにご覧になっていますか?
 いえ、けしてsuganoさんからの返事を、「ホラ、やっぱり言葉にしているじゃないか」などと揚げ足取りに使おうとしている訳ではありません。
 我々凡夫の「ありのまま」の見方は様々です。「真如を見た」、「諸法実相に触れた」、「空とひとつになった」などなど、自分の願望のまま、自分の見たいものを見、触れたいものに触れ、なりたいものになって、それを「仏教」だと言いたてるのです。釈尊の言葉を聞こうともしないで。

 釈尊の教えて下さった「ありのまま」の見方は、「苦、無常、無我、縁起」であったと、私は考えています。これが正しいのかどうか、suganoさんも、是非釈尊の言葉にあたって調べて頂きたいと、切に希望します。

                               敬具
sugano様
      2005、3、2、                 曽我逸郎


suganoさんから  2005,3,3,

悟りの真意というものは言葉に表すことは困難であるが、学道の人には伝えられていく。とはいえ、思慮分別の言葉にとらわれると自由を失い、真意とくいちがえば思案に迷うばかりである。
【寶 鏡 三 昧 】2

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