ひばりさん 修行について 2004,3,26,

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我々が「宗教(信教)」に救いを求めるのは、「四苦八苦」からの解放(逃避ではない)」を得て、心安らかな人生を送りたいためですね。それを「極楽浄土に、天国に」参りたいと言うことですが、その手段や方法を見つけるためにすることを修行と言うのですね。

それで「どういう修行をしたら良いか」ということになる訳ですが、その前にこの修行をうまく機能させるには、兵法の極意と言われる「敵を知り、己を知らば、百選連勝」と言う態度で挑むべきだと思います。ここでいう「敵を知り」とは、「極楽浄土、天国」の持つ特徴とか特質を見極めることといえましょう。

次に述べる事は皆さんにも覚えがあること、子供のころ自転車に乗れるようになれるまでのことを当てはめて述べることにします。乗り始めのころは、倒れそうになるとその反対側へハンドルを切りましたね。その為に、倒れてしまう。

回転する車輪は、倒れようとするとその方向により傾くことによって立ち直ろうとする働きが生まれます。我々の行動とは、反対の動きをしますね。しかしまた倒れないでいようとしても、傾こうとする働きがあり、倒れようとして倒れまいとし、倒れまいとして倒れようとすると言う働きが交互起こり、それは波長のようにブラスになったりマイナスになったりします。そしてこの中間の平均点である中間が、最も倒れるでもなく、倒れないでもない状態にあり、この位置が釈尊がおっしゃられる「中道」の位置でありましょう。

この「中道」とは、苦しい苦行を続けられてきた釈尊が、「苦行には益なし」として捨てられ、更に「放埓な不真面目」もまた捨てられ、その中間の心の位置、精神状態を選ばれたことを指していますが、その他にも「大でもなく小でもない、善でもなく悪でもない」などの状態を指し示し、それが「空の思想」になっていると思います。

これが相手の特徴であり、それに対峙する己もまた、「指針、コンパス」を正確にこの「中道」に向けなければなりません。しかし我々の精神(心)は、常にこだわりを持ち執着し、常に揺れ動くばかりか、そこにとまりがちになっており、コンパスを合わせるのは容易ではありません。そのために修行を続け、ブレやズレの振幅を押さえ、指針を正しく向かせようとするのが修行でありましょう。こうした練習の積み重ねによって、いつしかハンドルさばきを自然に身に付けて乗られるようになっていくものです。

今のは肉体が自然に習得できる自転車の乗り方で自転車に乗れたことにより確認できますが、ことは我々の内面のことですから見られません。しかし修行を続けていくならば、着実にコンパスは正しい方向に向けられようとしています。このことを釈尊は、

   大工や鍛冶屋が、金槌を用いている内に柄の部分が減ってくる。しかし「今日はこれだけ減った、明日はこれだけ減るだろう」とは判らない。

と言っていられますように、諦めることなく続けていくならば、機が熟したならば(個人あるようだ)必ず悟入することでしょう。

それではこうした「中道」に精神(心)を向ける修行の仕方、「修行とはどういう修行」ということになりますが、これは仏教用語として使われる「禅」だと思います。普通「禅」と言うと「座禅」を指しますが、ただ「座禅」だけが禅とは思いません。「禅」とは言語学的にどういうことか知りませんが、私は「無念無想」に導くためのものと思います。それは「名工名人」と言われる人々が作品を仕上げる時に、「旨くやろう、上手に仕上げよう」とするほど旨くいかない。何も思わず「無心」になってやると、自他共に認められる作品が出来上がるといわれるように、いわば「無念無想」にならなければなりませんね。この「無心に、無念無想」になるには、「呼吸」を整えないことにはなれません。

私なども細かいことをする時、「呼吸」が乱れたり激しかったりすると旨くできません。

これは「座禅」の心というべきものと言えます。だが

  参禅必ずしも山水を用いず  心頭を滅却すれば火もまた涼し

とも言われ、他にも「念仏、お題目、賛美歌を唱える」などがあると思います。それは「座禅」が「静」の修行であるのに対し、「動」の修行というべきでしょう。我々にも音楽を聴きながらすると、勉強や仕事がはかどる人がいるのと同じでしょう。「念仏、お題目、賛美歌を唱える」などなさってみると判ると思いますが、続けているうちに「唱えようとしないのに唱える」ようになってしまいます。これは一種の習慣でしょうけれども、修行の結果だといえないでしょうか。そしてそれは「無心になっている」とも言え、「中道」に向かっている様子の現われみたいなものと思われます。

そして「念仏、お題目、賛美歌を唱える」などは呼吸のうち、吸う息より吐く息を長くしています。「腹式呼吸」ですね。「座禅」はもとより「腹式呼吸」ですから、変わりない「禅」の修業といえるでしょう。因みに

                  浄土真宗
「静」の座禅から ⇒ 賛美歌 ⇒ お東 ⇒ お西⇒ お題目の「動」と「静」から「動」への五段階のリズムの速さを示してみましたが、個性に合わせてどの修行を選ぶか為さるとよいでしょう。

なお「無心になる」という事は、「打ち込む」ということでもあり、趣味などに打ち込む等がありますが、ギャンブルに打ち込むのは、頂けませんね。後は頭に血が上っていますから。

声を出すことによって「無心」に慣れたなら、次には「座禅」に進まれて、自然の中の「中道」の息噴きを味わい、よりその心の中に入って頂きたいものです。

言葉で述べようとすると幾種類もあり、それを偏見視されることの威容にと述べ方に気をつけたりして、時間などが掛かりましたが、こんなところでどうでしょうか。またこれまで私は、偉そうに先輩面したみたいな態度で述べてきましたので、気が引けます。それで長居をすべきではなかろうかと思っています。まだ続けて「持論」述べてもよろしいでしょうかね。

ひばり


ひばりさんから再び 再度「自己犠牲」について 2004,3,31,

再び「自己犠牲」について述べさせて頂きますが、その前に、これは何もこのHPに限らず他にもあり、また宗教の話をする人などもそうですが、釈尊を語りながら、その基本とされた「中道」については余り語られていないように思います。この「中道」を語らずして「仏教」を語っても、それは片手落ちというもの。もっとも釈尊入滅後の人々は、この「中道思想」を「空観」に込めたようですので語る必要がなかったのかも知れません。現に「原始経典」の中の「阿合経、法句経」なんかには、釈尊のお言葉そのまま記されているといわれていまして、「中道」についても語られていますが、その後「空」を強調されたのは「竜樹菩薩」だそうで、その著書「中論」の中で「空、仮、中」と述べ、「ある(仮)、ない(空)のどちらでもあり、どちらでもない、微妙な境地を(中」」と解説していると今日の新聞に出ていました。

仏教入門者などは、いきなり「般若心経」などから入るより、釈尊の肉声そのもののような「阿合経、法句経」などをご覧になられてからの方が、よろしいかと思います。

それでは、誤解されているみたいな「自己犠牲」について再び・・・・。前の「自己犠牲」のメールも、「中道」に立って見られるとご理解頂けたと思うのですが。

曽我さんにもお子さんがいらっしゃると思いますが、このお子さんを養育される時には、おそらく「自分本位」になってはなさらないと思います。むしろ「お子さん中心」になされることでしょう。この「お子さん本位になる」ということは、曽我さんは曽我さん本位を放棄している訳で、曽我さんは「自己犠牲」していることになります。

しかしそのことは将来、曽我さんが指摘したようにお子さんの為にならない、かえって害になる可能性は「無」ではあり得ません。だがそれを、予測もできないでしょう。

「将棋、囲碁、チェス」などでは、プロともなれば何十手先まで読むそうですが、それはこまの動きが最大八方向しか動けませんし、囲碁の場合は空いている所しか駒を打てませんが、人間の場合は最近の「家族、知人友人、職場関係、学校関係」ばかりか、過去で関係した人々ばかりでなく、周囲の環境まで影響をもたらしますから、「神のみぞ知る」と言わなければなりますまい。

そうしますと、あまり先のことを気にしていても疲れるばかりでしょう。もう二十数年前になりますが、私は次のような親鸞聖人の教えの、概要に触れたことがあります。

   今為さなければならない事は、誠心誠意勤めよう。その結果どうなるかは、仏に任せるより他はあるまい。しかしその結果は、良きにつけ悪しきにつけ、責任を持って素直に受け入れ、悪しき結果であったならば、また誠心誠意を込めて良き結果となるよう勤めようではないか。

こうした意味のことを伺って私は、学問とか知識とかを捨ててしまいました。そしてただ「現実を誠心誠意を込めて」勤めようとして参りました。それは「自己」に拘っていてはできません。即ち「自己犠牲」しないことには。先に「修行について」でも述べましたように、このことについても「中道」の立場を取るべきでしょう。しかし間違えないで頂きたいのですが、一方は「自己中心」ですが、片方は「子供中心」にしますと、その中間は「どっちつかず」となり、どちらも放棄するということになります。ですからもう片方のほうは「何もしない」というふうに、言わば「ヤケクソ」ということということになりますね。

ひばり

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