安部さんより 「自己を拠り所に」の自己とは? 2003,3,14,

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

曽我様へ

前略

返事が遅くなり大変失礼しました。

前回のメールを頂いてから、「これはもう少し本腰を入れて考えなければならないぞ、安易に批判しても簡単に崩れそうにないな。」などと思い、曽我さんの「あたりまえ般若」や小論文集を、もう一度最初から読み直してみよう、と思いつつ、なかなか時間が取れずに、ズルズルとなってしまいました。

(一部略)

前回のメールで、無我の教えは、「存在」としての自我の否定であり、「働き」としての自我の否定ではない、という趣旨のご説明があり、今回さらに、私の疑問に添った形で、丁寧なご説明を頂き、誠にありがとうございます。

そして、理屈としては、かなり分かってきたような気がしています。けれども、曽我さんがご指摘のように、「無我」や「無常」や「自分の死」などを、理屈として、知識として、理解することと、それを心から「受け入れる」事とは、また別の問題である、ということも分かってきました。

まだまだ、自分自身、勉強不足であり、仏教的な考え方を批判する資格はないと承知しているつもりですが、あえて、「抵抗勢力」として、批判的意見を述べることによって、問題点がよりいっそう明確になり、自分の理解も深まるのではないかと考え、曽我さんの迷惑も顧みず、大胆な主張をしてしまいました。決して、悪気があるわけでありませんが、今しばらく、「抵抗勢力」として頑張って(我を張って)みよう、と思っています。うるさかったり、鬱陶しかったりしたら、無視してください。

もう少し学習してから、また質問させていただければ、と思っていますが、今日は一点だけお願いします。

ブッダは無我の教えを説きながら、一方では、「自己と法を拠り所にしなさい」と言っておられるようですが、この場合の、自我と自己とはどのように違うのか、自我はアートマンの訳ですが、自己は何の訳なのでしょうか。

自我と自己の違いを解説している参考文献などありましたら、ご紹介頂ければ幸いです。

草々

2003.3.14

安部


安部さんへの返事 2003,3,23,

拝啓

 「『自己を拠り所に』という『自己』は、アートマンと同じ単語か、別の単語か?」
というご質問を頂きました。

 私は、落第生で、地道な文献学者の方々の研究成果を掠め取っているだけなので、この手の御質問には、正直言って不向きです。眉に唾をつけながら読んでください。

 どなたかもう少しましな説明のできる方、メール下さい。

****

 結論から言いますと、同じ単語です。

 レグルス文庫 三枝充悳 「初期仏教の思想(中)」 P439には、ダンマパダ380がこのように記されています。

 「実に自己こそ自分の主であり、自己こそ自分の拠り所である (attA hi attano nAtho, attA hi attano gati) 。それゆえ、自分を (attAnaM) 制御せよ。」

 アルファベットは、パーリ語。Aは長母音、Mはmの下に点。(この表記法はサンスクリット語におけるHK式表記でパーリ語でも使っていいのか、曽我は知らないまま使っています。)

 attA(アッタ−)は、サンスクリットのAtman(アートマン)にあたるパーリ語の単語です。無我(アナートマン anAtman)は、パーリ語では anattA となります。

 ですから、試みに attA を機械的にアートマンに置きかえてみると、ダンマパダ380はこうなります。

 「実にアートマンこそアートマンの主であり、アートマンこそアートマンの拠り所である。それゆえ、アートマンを制御せよ。」

 如何でしょうか? どう読まれます? 一見アートマンを主張しているように感じられますが、よく考えて見ると意味を為しているのでしょうか? アートマンを制御する超アートマンがいるのでしょうか? それがわたし? だとしたら、わたしに制御されるアートマンって何?

****

 ちょっと目先を変えて、「初期仏教の思想(中)」 から、いくつか他の経文も抜き出してみます。

 「初期仏教の思想 上中下」 は、初期経典から、苦・無常・無我などテーマ毎に関連する経文を抜き出して羅列しているので、こういう時に大変便利な本です。

P386 スッタニパータ1119 ・・・自我に固執する見解を打ち破って、世界を空であると観ぜよ。・・・
P389 スッタニパータ231 自身を実在とみなす見解・・・それは捨てられてしまう。・・・
P390 スッタニパータ364  ・・・生存を構成する要素のうちに堅固な実体を見いださず、・・・
P404 スッタニパータ916  『われ考え、われ有り』という「迷わせる不当な思惟」の根本をすべて制止せよ。・・・

 916を聞いたら、デカルトはなんと答えただろう?

 以上のとおり、アートマンが否定されていることは明白です。スッタニパータ919には、「アートマンは存在しない」と読める一文もあります。(但し、三枝博士は別の読み方をする。詳細は同書P429)

 また、安部さんが感じておられる「矛盾」を、まさにそのまま説いた一文もあります。
P392 スッタニパータ477  自分によって自分を観じて認めることなく、・・・
 ―― 自分で自分を見て、自分があると認めない、、、、???

 この一見矛盾した文章を理解するヒントは、アートマンという語の持つ二重の意味にあると思います。サンスクリット辞書サイト Cologne Digital Sanskrit Lexiconによれば、アートマンには、魂とか個我といった宗教的・形而上学的意味の他に、「単数形で、すべての人称・すべての性に対する再帰代名詞として使われる」ともあり、she strikes herself.という極々日常的な例文がありました。つまり、アートマンは、「自分」という日常単語でもあるのです。(パーリ語のattAも同様だと想像するが、浅学ゆえ今確認できません。)

 taka kudouさんとの意見交換(99,11,19,)で「アートマンは一人称代名詞でもある」と書きましたが、それは誤りです。一人称代名詞はahamで、Atmanは再帰代名詞でもある。なぜかずっと一人称代名詞と思いこんでいたのですが、今回ようやく間違いに気付きました。

 「縁へのそのつどの対応である自分(日常会話の再帰代名詞のアートマン)を観察して、そこに実体視され妄想されてきた自我(宗教的・形而上学的概念としてのアートマン)はないと知る。」
 これが、スッタニパータ477 の意味だと思います。

 では、ダンマパダ380 はどう読むべきか? 少し過剰に言葉を補って意訳してみます。

 「縁へのそのつどの対応である自分だけが自分の主であり、他にいかなる超越者もいない。誰の指示を仰ぐ事も出来ないし、誰に責任転嫁することもできない。自分という対応をよく観察し、よく分析することによって、実体視し妄想してきた自我(宗教的・形而上学的概念としてのアートマン)はない事を知り、あらゆる執着を吹き消す事ができる。そのためにはまず、中道を歩み、戒定慧の三学を学び、八正道を守り、日々の対応を整え、自分という対応に正しい癖をつけなさい。」

 ダンマパダ380 の力点は、無我の教説にではなく、日々の修行における身の処し方、どのように修行すべきか、にあると思います。

 三枝博士は、同書で、執着の対象としての「自我」と、主体性の「自己」に二分して考えを述べておられます。こちらも読んで検討してみられれば、おもしろいと思います。

 またご意見お聞かせ下さい。
                            敬具
安部様
      2003,3,23,            曽我逸郎


安部さんからの返事 2003,3,24,

拝啓

曽我様へ

今回もまた、丁寧なご返答を頂き、ありがとうございます。

自我と自己とが、同じアートマンの訳であるとの事、正直言って予想外でした。

しかし、よく考えてみれば、ブッダが、おのれの思想体系の確立を目指した哲学者や思想家ではなく、また、自ら著作を残したわけでもないのだから、使用されるひとつひとつの言葉に対して、厳密な定義が与えられるはずもなく、一箇所だけ取り出して、云々しても、全体の流れの中で読み込んでいかなければ、理解不可能になってしまう。

曽我さんがご指摘のように、アートマンには二重の意味がある(宗教的・形而上学的概念としてのアートマンと日常会話の再帰代名詞としてのアートマン)と考えるのが妥当なのでしょう。

実体としての、執着の対象としての自我と、そのような執着の対象を作り出す、作用としての自己。自己という働きが、いかにして、実体としての、執着の対象としての自我を作り出すのか、その過程をよく見極めて、その作り出す作用を停止することによって、自我への執着を解消することができる。

執着を解消するためには、まず、作用としての自己を、よく見極め、観察する必要があり、その意味で、自己が拠りどころになる。自己とは、私達が、その上に立脚する、岩盤のようなものではなく、その働きを究明していくことによって、私たち自身の「自分という思い」が解消されていく、川に架かった橋のようなもので、渡り終えれば必要なくなる。

以前の私の例えで言えば、

砂山の上に立っていることに気が付いて、砂山が崩れて、その中に沈んでいくのを恐れていた人は、実は、最初から、砂の中を泳いでいたのであり、それどころか、自分の体も、砂で出来ていて、自分も砂の一部だった。溺れようにも、溺れようがない。

(砂の中を泳いでいる、砂で出来たアメーバのようなものをイメージしています。このアメーバの内と外を分けるものは、薄くて半透明な膜だけであり、その膜を通して、外の砂が内に入ることもあり、内の砂が外に出て行くこともある。アメーバは、時々刻々、形や大きさを変えながらも、生きている間は、アメーバとしての活動をする。アメーバの自己と言っても、その中身は、砂以外の何物でもなく、砂とは別の、構成要素があるわけではない。アメーバが死ねば、その活動は停止し、ただの砂に帰るだけである。)

実際に我々も、息を吸ったり吐いたり、食物を摂取したり排泄したりして生きており、体の内と外の物質は、別々の、異質のものではない。

かなり勝手に、適当に、想像力を働かせてしまいましたが、一応、道元の、

「仏道をならうというは、自己をならう也。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。」(現成公案)

をイメージして書いてみました。

もし、私の解釈に、大きな間違いがあると思われましたら、ご指摘ください。

ご紹介の「初期仏教の思想」、読んでみます。

戦争に関して。

わたしたち一人一人が、完全に「自分を制御(コントロール)」する能力があれば、戦争は起こらないのかもしれませんね。悲しいかな、私にも、ありませんが。

今回は、この辺で失礼します。

敬具

2003.3.24

安部


再び安部さんへ 2003,3,27,

前略

 「砂の中を泳いでいる、砂で出来たアメーバ」という比喩、大変うまいと感じました。そのとおりですね。砂で出来たアメーバは、進化を続け、やがて人間になったけれど、やはり砂で出来ていて、死ねば砂に戻る。

 安部さんのおかげで、いろいろと考えることができ、自分なりにいくつか発見もありました。ありがとうございます。

 安部さんも、引き続き幅広く様々な考えを批判的に検討され、またご意見ご質問をお聞かせ願いたく、よろしくお願い申し上げます。

                       草々
安部様
        2003,3,27,      曽我逸郎

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