曽我逸郎
 今晩は、ユキオです。
 大変誠実な御返事、本当にありがとうございます。
 僕も曽我さんのような人格を見習いたいと心から思いました。

しかし、やはり私には、曽我さんの意見に、共感することはできませんでした。

曽我さんは、学生の頃から、今までの人生において自殺しようと思ったことはありますか?僕は常に自殺衝動に呪縛されています。それが、仏教を学ぶ原動力です。すなわち、僕は仏教を「死の哲学」と捉えているのです。人は生じてしまったからには、強制的に社会的現象とならざるをえませんが死ぬ時は、一人で孤独に無残に滅するわけですから、やはり人は、絶対的孤独な現象にすぎません。だから、仏教は、個人主義の教えであり、非社会的な教えです。大乗仏教などと言うのは、戯言にすぎません。元々、社会というのは、人の「我執」の排泄物のヘドロ現象のようなものです。自己の死の徹底的自覚のみが、仏教の基本的常識では、ないでしょうか。自分が死ねば全て終わるも同然ですから。

あと、文献学についてですが、仏教文献学は確かに基本ではありますが、究極的に言えば、釈尊が書いた経典はないわけですから、どんな古い時代に書かれた経典であろうと釈尊の直説ではありえません。それぞれの時代にそれぞれの人が、自らの「我執」に基づく「主観的解釈」によって、都合良く創作されたものにすぎません。翻訳などというのも、結局は翻訳者の主観によって、必然的にねじ曲げられるものです。だから、学者さん達のやってる客観的研究だとか論証だとかは、全て不毛な行為にすぎず笑止千万です。
人は、結局、経典を自らのエゴイズムによってでしか解釈、利用することしかできません。これを自覚していない学者は、脳天気な楽観主義者であり、言語フェティッシュの罠に陥っている無味乾燥な人種にすぎませんね。

>>>仏教とは、生きてゆくために役立つ、もしくは、人間を救済する思想でもなければ、実践哲学でもないと考えております。(注:ユキオさんの一通目のメール)

 おっしゃるとおり仏教は世俗の枠組みの中を如何に泳ぐかを説く処世訓では ありません。しかしながら、世俗的・日常的なあり方は、根底的には人を苦し めるあり方であり、仏教は世俗的・日常的なあり方を変革する事を教え、それによって人を苦から救済する教えであると考えます。(注:先の曽我の返事)

 世俗的・日常的なありかたを変革することは、不可能です。なぜなら、生きている事自体が「我執」 だからです。人生とは、「我執」による「罪業」の積み重ねであり、社会は、「罪業」の集合的現象です。そして、人は必然的にそれを正当化し肯定することしかできないのです。敢えて業の実体化的表現をすると「宿業」です。

 我執も一つの現象であり、恐るべき強力な影響力を発揮します。「虚妄」という言葉で「ただの架空であって本当はまったくない」と考えるならそれは誤りで、我執を含む執着は、我々を強力に苦へと誘導します。
 自分が持続的実体・自性を持たない無我なる縁起の現象であるという教えは、執着に捕らわれた世俗的な見方に対立し、執着力を競いあう世俗世界での争い・競走の役には立たず無力です。(それにしては現世利益を説く自称仏教が如何に多い事か、、) しかし、世俗の競走の勝者といえど、依然として苦の枠組みの中にいる。そこでの勝利はかえってより大きな苦を導く。それに対して、無我の教えは、執着を吹き消し、人を世俗の戦いの場から導き出し、苦の元を断つことができます。(曽我)

これは、いわゆる社会的価値観という下劣な「宗教」にはまっている人達から見れば、弱者の戯言と片づけられて終わりでしょう。あの人達の基本は、しょせん弱肉強食の論理に基づくエゴイズムの顕示の程度こそが、人の価値判断基準でしょうから。いわゆる歴史上の有名になった人物も仏教的視点からみれば単に「我執」の強い自己顕示欲のかたまりで、たまたま運良く売名行為に成功した罪人にすぎません。最もそういう人物をもちあげる人がいるから、歴史の悲劇というのは繰り返されるのです。歴史とは、「罪業」の生命連鎖現象です。

 「一切皆苦」な「生」とは、執着に導かれた世俗的な生であり、それと死の他に、それらとは別の執着を離れた生が可能であり、それを教える教えが仏教だと考えます。(曽我)

人は、生きている限り、「我執」を離れることは、決してできない、それを苦しみながら徹底的に自覚することしかできないのだよと教えるのが仏教だと思います。

 個々の現象(どのレベルをもって個々かという議論は置いておいて)を捨象して全体世界という観念をでっちあげ、真如とか法界などと全肯定し、ものの分かったような顔で偉そうにふんぞり返っているのは、まさに我執の固まりであり、ヒューマニズムどころか偽「善」ですらないと思います。端的に悪です。(「あたりまえ、、」本文の空の捉え方に同様の傾向を感じて、実は最近気になっています。)(曽我)

そうですね・・・でも、人は無意識に現象の実体化をし続けなければ生きていけないというのは、厳然たる事実です。現象をありのままに捉え執着しないことは絶望的理想でしかなく、不可能です。

 ただ、私は、偽善にはあまり目くじらを立てるべきではないと思っています。凡夫である我々が何か善をなす時、子細に分析すれば必ず偽の要素がある。世間体だったり、優越感だったり、自己陶酔だったり。それにこだわって偽善をなさないよりは、開き直ってなしたほうがいい。内面が偽りでも、外には純善と同じ効果があるのですから。善意の寄付も偽善の寄付も同じだけの経済効果があるように。
 本当の私は、仏教的とは言い難い、ものぐさで酒好きなありふれたおじさんですが、こうして偽善的サイトを続けていくうち、ひょっとしたら真摯に(あるいは偽善的に)発心を起して下さる方がいるかもしれません。それに偽善で一番偽られるのは、どうやら実は本人で、偽善も続けているうちにだんだんその気になって、「偽」が薄まっていくような気もします。(曽我)

 僕も本当はそう信じたいです。祈りたいような気持ちです。

 正しいのかどうか分かりませんが、私は、瞑想とその積み重ねの上にいつか訪れるであろう「意識の指向性停止体験」を要請しています。というのは、論理(言葉、戯論)で考えるだけでは、自分が問えないからです。論理は、常に対象を外にたてて考える。自分を考えてもそれは外に対象として立てられた自分であって、現に悩んだり考えたりしている自分ではない。「悩んだり考えたりしている自分」と考えた瞬間、すでにそれは外に対象として立てられている。他ならぬ自分の無我・縁起を知るためには、論理を超えたなにかがなければならず、それは一種の宗教体験であろうというのが、今の私の仮説です。そしてその体験によって、我執や実体的な自我の意識は粉砕されると期待しています。
 勿論我執に基づく妄想体験で、真理を得ただの、神の宣託を得ただの、最終解脱を果たしただのといいたてる輩が多い事も事実です。いかにして両者を見分けるのか、その術は私にもまだ分かりません。(曽我)

 「宗教的体験」とは、一言でいえば、「忘我状態」にすぎません。どれほど強烈な「忘我体験」をしようが、必ずまた戻ってきます。いわゆる戻ってこれなくなる人は、自意識は粉砕されているのでしょうが、ただの廃人でしょう。
真の意味での「宗教体験」による「我執」の破壊は、「死」のみです。
結局、生きている限りにおいての「宗教的体験」は、全て「我執に基づく妄想体験」であり、体験者はそれによって、誇大妄想におちいり、自分を狂信することにより、パワ−を手にしてそれをもっともらしく自己顕示することしかできないでしょう。
最終的に言えば「生きる」ことを前提とし肯定する論理、体験は全て不毛なあがきであり、「我執」でしかないということです。

 結論としては、仏教は、現象を実体のある自存的存在と見ることが執着を生み、そのことが更に苦をもたらすと説き、執着の対象も自分も、実は縁によって始まり変わり終わる無我なる現象であると教えている。自分が無我なる縁起の現象であると想像する事は、いまだ自分に執着している人には、大変にペシミスティックに思われるが、自分が無我なる縁起の現象であると知ってしまえば、目的や価値の概念に束縛されず、身の回りの様々な現象とともに縁起し合う事を喜び、縁起し合う有情の喜び悲しみ苦しみを共にしつつ、世界と和解し、自分を許し、限られた生を顔を上げて生きていく事を可能にする。すなわち、仏教は、ポジティブなニヒリズムであると思います。(曽我)

仏教とは、究極の宗教的ニヒリズムから生じたギリギリの理想主義の教えです。
唯一の宗教的ニヒリズムの実践とは、自己の抹殺であり、「我執」の破壊です。
自己犠牲によって他者を救済した者だけが、真の仏教徒であり、慈悲に愛に殉教したと言えるでしょう。あのベトナム僧の焼身自殺は、まさに真の仏教実践者です。
「天上天下唯我独尊」とは、偉大なる逆説であって、自我の極致によって自我を抹殺するという「聖なる狂気」の宗教的精神を示していると信じます。
また、仏教は、「十二支縁起」などを解釈してみてもやはり、「生」を徹底的にネガティブに捉えていることは、明確です。よって、その生命を内包している現象である女性は、当然、害であり、仏教が男尊女卑の教えであることは必然です。

 現象を現象としてではなく、自性を持った永続的な自存的存在と見る事が、執着を生み出す「現象の実体化」です。ですから、逆に現象を正しく現象としてみる事は、現象の実体化を阻止する事になります。(曽我)

これは、大変失礼な言い方ですが、曽我さんの意見は、全体的にみて真摯ではありますが、文献学的概念に侵食されすぎているというのが、正直な感想です。
僕は表現力は未熟ですが、表現力のある方というのは、反比例して言葉を楽観的に軽く使ってしまう傾向があります。特に学者が、その典型ですね。
ここで少し話は、脱線しますが、もし僕が信じたいと思える経典があるとしたら、血涙の文字 が滲み出ている経典だけです。

 輪廻の問題は、あろうがなかろうがどちらでもいいとは思うものの、世間の人にとっては、我執をより強固にさせる危惧があるので、明快に、輪廻はない、と答えたいと思います。(曽我)

輪廻 の主体(ア−トマン)などあるわけはありませんし、それを否定することが釈尊の教えです。しかし・・・長くなるのであえて矛盾を省略しますが、僕の輪廻概念は、「六師外道」の「ア−ジ−ヴィカ教」に近いものであり、ネガティブの極致としての輪廻概念です。

ずいぶんと長々と妄説を書いてみました。これも縁だということで、参考?にしていただけたら幸いに思います。表現不足の未熟な意見だとは、思いますが自分の気持ちをある程度は正直に書けたと思います。ニヒリズムの精神というものを僕は非常に大切なことだと信じています。

「あたかも幻のように、あたかも夢のように、あたかも蜃気楼のように
生はそのようであり、住はそのようであり、滅はそのようである」
                           『中論』 七・三四

                      不一

                        ユキオ


ユキオさんへの返事

 返事遅くなりました。すみません。

 自殺衝動などといわれると、どう対応していいか分からず、びびっております。私にも釈尊の何十分の一かでも智恵があればいいのですが、、、
 返事がないのも一つの返事、そこに何かのメッセージを読みとって意味付けをされる可能性もあるかもしれず、それなら誤解(私の、そしてユキオさんの)を恐れず、思う事を書いてみようと思います。

1)自殺・死について

 私は、自殺しようと思った事はありません。漠然と死にあこがれたり、凡庸な日常生活を軽蔑して「今教室の窓から飛び降りたら、こいつらどうするだろう」と教師やクラスメイトを冷ややかにながめたりすることはしょっちゅうでしたが(映画「台風クラブ」に同様のシーンがあって、昔の自分を思い出しました。)、具体的に自殺のプランを練ったり、ましてや実際に試みた事はありません。

 今私が自身の死の姿として思い描くイメージは、一人田んぼで倒れるというものです。泥田に顔を半分埋め、頬に止まったカエルでも蛭でも、あるいは空に弧を描くトビでも、最後の意識でありったけの祝福を投げて死んでいきたい。もちろん祝福された方は、それを知るはずもなく、幸運を得るわけでもないでしょう。でも、私としては、世界の矛盾や欠点も承知の上で、自分の至らぬ点は許しを請いながら、ともあれ世界と自分を承認し同意しつつ死ねれば、と思っています。
 「虫よ、鳥よ、草よ、土よ、木よ、雲よ、空よ、人よ、ありがとう、いろんなことがあった、僕の終わった後もきっといろんな事があるだろう、皆が皆いつも幸せではあり得ないかもしれない、でも、苦しんだり、悲しんだりしながら、それぞれ存分に生きて欲しい。」 そんな気持ちで世界にさよならを言えたらと思っています。
 おっしゃるとおり 人は必ず一人で滅するのですが、もしこんな風に終われたら、けして孤独でも無残でもないと思うのですが、どうでしょうか?

2)釈尊対大乗?

 では釈尊のお考えはどうだったでしょうか。少なくとも積極的に自殺を勧められた事はない筈です。でも、それは、「自殺しても輪廻して再生するのだから意味がない。この生で、再生の芽を注意深くすべて摘み取り、完璧に自分を消せるよう努力すべきだ」と考えておられたのかもしれません。わたしはそうは考えたくないのですが、そういう読み方も可能でしょう。残された初期経典の文字面だけを読めばその方が自然な読み方かもしれない。
 ただし、「自己の抹殺=我執の破壊」というような考えは、けっしてお持ちではなかった。「我執を離れる事は出来ない」などといわれたことは絶対にない。四聖諦、八正道、戒定慧、無我、縁起。懇切丁寧に言葉を尽くして執着を吹き消す術を教えてくださったのが釈尊です。我執を離れる事は不可能だ、と考えておられるのはユキオさんであって、けして釈尊ではありません。

 しかしながら、ユキオさんが、「仏教は本来、生の否定である」として、大乗を否定なさるのは、正鵠を射ておられるのかもしれません。
 津田眞一という方が「アーラヤ的世界とその神」(大蔵出版)という本を書いておられます。大変ユニークな内容なのですが、その中に「釈尊の仏教と大乗とはクリティカルである=両立不可能・どちらか片方しか選べない」、「釈尊の仏教は反自然である」、「慈悲は釈尊の悟りから自然に導き出されるものではない=両者の間には断絶がある」といった主張をされています。
 私は、大乗仏教によって仏教に導かれましたし、今でも大乗仏教、特に中観をよりどころとしているつもりです。大乗をベースキャンプとしながら、釈尊の教えも探索し始めたばかりというのが現状です。上の段に書いたように、生(=世界と自分)を肯定し、生を喜べるようになりたいとも思っています。
 しかし、言われてみると、確かに古い経典の中に自然をたたえた言葉はほとんど(あるいはまったく)見つけることはできません。津田先生の考えがあたっているとすると、わたしのめざす「仏教」は、釈尊の教えとは別物なのでしょうか? わたしは大乗的、即ち、反釈尊的なのでしょうか。

 でも、しかし、、、、、そうは考えたくない。なんとか覆したいのですが、論拠が見つからない。大乗と釈尊の関係について、今は判断停止とさせておいて下さい。

3)すべては執着に染め抜かれているか?

 社会は、隅から隅まで「我執」の排泄物のヘドロ現象でしょうか? 徹頭徹尾悪の汚辱の世界でしょうか? 確かにそう見る事もできるでしょう。でも、よく言うではありませんか。人は見たいものだけを見ると。同じ土地を旅しても、人によって全然異なる評価をするように。
 見ようとすれば、執着に染まらない行為だって、見つけられるのではないでしょうか? いい人だなと思える人はいませんか? それを売名行為だとか、自己陶酔だとか、偽善だとか、裏読みする事もできますし、それが正解の事もあるでしょう。でも、本当は正解は分からない。というか、正解はないのです。善なる行為は大抵幾分かは偽善で幾分かは真善です。行う本人にだって、どっちが多いか正確には分からない。でも注目したいのは、偽善にも必ずいくらかは真善が混ざっているということです。

 突然変な話を出しますが、以前テレビの野生動物のドキュメンタリーで思いがけないシーンを見ました。チータ(だったと思う)が、カモシカの群れを襲い、小鹿を狙います。右に左に追いかけ、追いつめ、遂にがぶっと首に噛み付きます。でも、どうした偶然かいわゆる柔噛みになって(あるいは、牙ではない奥歯で捕らえてしまって?)、小鹿は首を真っ直ぐ伸ばしたまま、まるで友達と遊んでいるようにしっぽをぴりぴりと振りました。チータは首を傾けて小鹿の首を咥えたまま、1、2秒がたち、「ええい、くそ、かなわねえな」といった感じで、ぷいっと口を離し、小鹿は跳ねながら逃げていきました。
 「友達と遊んでいるように」とか、「ええい、くそ、かなわねえな」とかいうのは、勿論私の勝手な感情移入ですが、弱肉強食の世界の腹を空かせた肉食獣にさえ、相手を餌としてではなく同じ命としてみてしまう一瞬が生まれ得るらしいという発見にうれしくなりました。

 この世のすべてが完璧に執着に塗り込められていない事を示すもうひとつの反証は、執着を憎み拒絶するユキオさん自身です。ユキオさん自身のあり方が、執着に対抗するベクトルが可能である事の証明ではないでしょうか。
 ならば、他にもユキオさんと同様に、でもひょっとすると別のやり方で、執着に対抗している人がいるかもしれません。

4)動物進化と執着

 残念ながら我々の住むこの世界は、極楽浄土ではありません。生きていくために他の命をむさぼり、競い合い、争いあっている。そうしながら我々は進化してきました。
 我々の先祖の原始生命が、自分に有利な環境へ移動することを始めて以来、動物は、進化の過程で感覚を発達させ、世界を区分して対象化する事を覚え、いつも化し、執着を研ぎ澄ませてきました。弱肉強食の世界をより有利に生きぬくために。つまり、我々の執着は、生命誕生以来の進化の「結晶」だという見方もできるでしょう。執着が進化の「結晶」だとすれば、釈尊の無我の教えは、生命誕生以来の進化のプロセス全体に対する反抗表明であるということになります。

 書きながら、最近考えているテーマと関係づけて思い付いたのですが、釈尊は、進化の過程のすべてに反対されているのではないかもしれません。進化の最終段階である執着のみを否定しておられる。
 確かに、十二支縁起他の有支縁起では、感覚器官(六処)で世界を対象化(名色)することが苦を生み出す過程に数えられているけれど、世界を感受する事自体を止めよとおっしゃった訳ではない。解脱後も釈尊は、感覚器官で世界を対象化して捉え、(いつも化がなければ成り立たないところの)言語を使い続けられました。

 執着は進化の過適応ではないかと思います。マンモスの牙のように行き過ぎた有害な適応。進化の延長線上にはあるのだけれど、執着のせいで人類は、苦しみ、苦しめ合い、殺し合い、さらには資源を食い散らしし環境を破壊し、地球全体を危機に陥れているのですから。おそらく執着は、言葉を覚えた人類からか、古くとも哺乳類のある段階から始まった事で、動物進化の全体史からすれば、さほど根が深いという訳ではない。執着の手前の、世界の対象化や、いつも化や、言葉は、釈尊もおそらく否定されてはおられないと思います。
 (不十分な説明ですみません。今、小論集のコーナーで自己という現象について考えをまとめようと格闘中です。それがうまくいけば、少しは想像して頂きやすくなるかもしれません。)

5)4つの状態と戒

 個体発生は系統発生を繰り返す、といいます。生まれたばかりの赤ちゃんは、対象化も、いつも化も、言語も、執着も知らない。成長するにつれて感覚器官が発達し、母親を第1として対象を認識する事を覚え、経験を繰り返して、いつも化を形成し、世界を退屈な部分と執着する部分に二分し、その世界観に縛られていく。

 しかし、いつも化は確立されて変更不可能なのではなく、日々の生活でより強固にもなれば、修正されもする。日々の生活を正しくコントロールする事によって、執着という悪しきいつも化を少しずつなくし、よきいつも化に変えていく事ができる。これが釈尊の戒の教えではないでしょうか。

 我々のあり方をモデル化してとらえると、4段階に分類できるのではないかと考えます。
 ひとつめは、悪しきいつも化=執着に無自覚に導かれた状態。損だ得だと騒ぎながら、無自覚のうちに苦の種をまいている状態。無自覚故にノエシス的あり方です。このあり方では、苦の自覚はなく苦の種をまいています。
 第2は、執着を実現できずに「こんな筈ではない」と苦を自覚した状態。望む自己と現実の自己のギャップを実感し現実に対して強い不満を抱いています。世俗的なノエマ的あり方です。
 第3は、本当にあるべき自分のあり方はいかなるべきかと自問し、その問いと格闘し、執着と格闘するあり方。自己改造の段階です。実存的宗教的なノエマ的あり方です。
 第4は、無我・縁起を知り、執着に染まらないいつも化を確立し、ノエシス的に、苦を作り出さずに生きるというあり方。

 4つのあり方の図を添付します。(うまく送れるか?)
 「私」という現象の或る一面を表したモデル図としてみて下さい。

 

 垂線Yは、その時の自分のレベルといったものです。赤い点Xは、一瞬一瞬の自分で、垂線Y上を常に上下に動いている。点Xが上に上がれば上がるほど、垂線Yには右へ移動する力が加わる。点Xが下に下がるほど、垂線Yは左に移動する。一瞬一瞬の自分のあり方(X)を、自覚的に高く保つ事で、我々(Y)はわずかずつでも如来に近づいていける。(ちなみに、私の垂線は、領域1、2、3、を右往左往しているまさに凡夫のあり方です。)

 申し上げたい事は、この図の右端に留まることのできたのは、歴史上おそらく釈尊お一人であったでしょうし、反対に左端に居続ける人も極めて非常に稀だという事です。古代の暴君を想像してみましょう。彼はほとんどなんでも思いのままに執着を実現する事ができます。でも欲望には限りがない。月を自分だけのものにしようとしてもできないし、若さも命も留めておくことはできない。不老不死の薬を求めてもむなしく、必ず図の第2の領域の不満・怒り・嘆きを味わう。また、仮に若くして老死も知らず、思うままに欲望を実現できたとしても、実現された欲望はすぐさま退屈というタチの悪い苦に変わる。

 我々は、どっぷりと真っ黒に執着に漬かったままでいることはできない。真っ黒でも真っ白でもなく、いつもどこか中間で、その時々に黒っぽくなったり白っぽくなったりしているのではないでしょうか?
 3)に書いた事と重複しますが、我々は、100%執着の権化でもなく、中途半端なところをいきつもどりつしている。右端にまで行き着く事はできないのかもしれない。でも、少しずつでも右に寄っていければそれでいいのではないか。その方向性こそが大事なのです。今の自分の状況において、でき得る限り執着を否定克服すべく努力せよ(第3のあり方であれ)というのが、戒定慧の三学の一、戒の教えではないかと思います。世の人々のあり方がどうであれ、自分のあり方をこそ問えと釈尊は言っておられると思います。(自分で言いながら、耳が痛い。)

 文献学にしても同様で、まともな研究者なら、釈尊を完璧に理解したなどと思っている人はいないはずです。現状のの理解を少しずつ釈尊に近づけようとしている。

 白か黒か、という見方ではなく、物事には結構灰色という vague な領域が広くて、少しずつ白に近づいていこうという考え方も有効なのではないでしょうか?

 まとまりのない内容になりました。また是非ご意見をお聞かせ下さい。

ユキオ様

2000年12月3日       曽我逸郎

意見交換のリストへ戻る  ホームページへ戻る