曽我逸郎
曽我さん、こんにちは。

仏教と心霊主義の示す世界観と無我の意味について

曽我さんのお考えでは、仏教の悟りとは「主客未分」を悟ることとなっているように思います。しかし、仏典においても霊界通信による情報においても、悟りあるいは境涯あるいは意識レベルというものには幾つもの段階があることが示されています。そして、それは単に悟りや意識に段階があるだけでなく、それぞれの意識レベルに対応する世界の存在やそこに生きるものの存在が示されています。

***引用開始***
アーナンダよ、実に、これら七つの意識の安住する状態(七識住)がある。また、二つの場所がある。七つとは何か。
アーナンダよ、さまざまに異なった身体をもち、さんざまに異なった想いをいだく生きものたちがいる。たとえば、人間や、ある一部の神々や、ある一部の地獄に落ちた者たちである。これが、意識の安住する第一の状態である。
アーナンダよ、さまざまに異なった身体をもち、同じ一つの想いをいだく生きものたちがいる。たとえば、禅定の第一段階(初禅)を修めて生まれるブラフマカーイ神たち(梵衆天)である。これが、意識の安住する第二の状態である。
アーナンダよ、同一の身体をもち、さまざまに異なった想いをいだく生きものたちがいる。たとえば、アーバッサラ神たち(光音天)である。これが、意識の安住する第三の状態である。
アーナンダよ、同一の身体をもち、同じ一つの想いをいだく生きものたちがいる。たとえば、スバキンナ神たち(遍浄天)である。これが意識の安住する第四の状態である。

アーナンダよ、物質的形態の想いをまったく超越し、感覚的反応があるとの想いを滅し、さまざまな想いを思惟しないことから、「空間は無限である」とする、空間の無限性を観ずる禅定の境地(空無辺処)に達する生きものたちがいる。これが意識の安住する第五の状態である。
アーナンダよ、空間の無限性を観ずる境地をまったく超越して、「何ものもない」とする、何ものもないと観ずる禅定の境地(無所有処)にたっする生きものたちがいる。これが、意識の安住する第七の状態である。
二つの場所とは、第一が想いのない生きものの場所(無想処)であり、第二が、想いがあるのでもなくないのでもない場所(非想非非想処)である。
(「長部教典」第一五経、大縁経・「原始仏典三 ブッダのことばz 講談社 宮本正尊訳」p269〜270)
***引用終わり***

また、こうした世界観の特徴のひとつとして、ひとつの境涯はその上の境涯にとって、より一時的な存在であるということです。つまりより上の境涯からすると下の境涯は無常、無我な存在であるということです。

***引用開始***
仏教では”自我を否定する”とよくひとは言うが、”自我そのものまで肉薄しないこと”と言った方が適切で妥当かも知れない。先に述べた瞑想の問題に関連して、自我の問題について一層つっこんだ考究は、『長部教典』の『布?婆楼経』(一・一九五ページ)に出ている。そこでは、まず自我を三種類に区別する。その第一は粗雑で物質的〔?〕の肉体であり、第二はやや高度の精神的〔意所成〕の我であり、(中略)第三はさらに高度の我で、無色=想所成とよばれる。(中略)しかし、仏教では、すべてこららの”我”は唯みかけの上のもので相対的なものとして認められているにすぎない。そして、瞑想が進むにつれて、その折り折りの仮象を破って行くのである。『布?婆楼経』に述べられているように、ある段階で実在すると感ぜられた自己は次ぎの段階に持ち込まれることなく、その段階まで来るともはや実在でないものとして体験されるが、これが瞑想の特徴である。(中略)こうして、修行者は瞑想する際に、それぞれの瞑想段階において、彼が前の段階で彼の自己だと知覚しがものを放棄するのである。仏教はこれらの相対的”我”に対して超然としているのではないが、絶対的最高な自己ないし我というようなものに肉薄するのでもない。このことは仏教にとってきわめて大事なことである。つまり、仏教では、そのような自己を否定するわけではないが、ある段階で自己として体験されるものは、いずれも本当は自己ではないというだけのことなのである。
「仏教(下) 第二部 教理 ベック著 渡辺照宏・渡辺重朗訳 岩波文庫」p84〜86
***引用終わり***
(?は変換できなかった漢字です)

もともと釈尊は、肉体は我ならず本当の自己を探求せよと教えたにもかかわらず、本当の自己・内面の自己を探求できなかった者、つまりは自分とは肉体以外にないとしか考えられなかった者が肉体が我でないのなら結局は我というものは無いのだと考えたのではないでしょうか。

しかし、仏典からも明らかなように釈尊は内面を深く探求し、肉体以外の存在形態を認めていたと思います。もちろんそれもさらに高い心境によって我ならずと否定されるものではありますが。つまりは無我の教えとは内面の自己、本当の自己を探求する過程で悟るものであり、また本当の自己へと導くための教えだと思います。

釈尊の本心と心霊主義

>>経典や仏教書だけでは限界があるとは私も痛感します。でも、だからといって、他に何があるでしょう? 考古学や歴史学には貢献できる可能性があると思います。「良質の心霊主義」は貢献できるでしょうか?(これは前回曽我からtaka kudouさんに送ったメールの一文です:曽我)

釈尊が説いた「言葉」を研究するのなら教典を読むしか方法はありません。しかし釈尊が人びとに示したかった人間観や世界観が何んであったかを知りたいのであればむしろ仏教以外の様々な思想をも参考にすべきだと思います。釈尊の指(教典や文献)ばかり見ていては月(釈尊の本心)を見ることはできないと思います。月を指差してきたのは釈尊だけではなかったと考えます。

仏教の初期教典を素直に読めば、そこに書かれている内容は心霊主義と同じものであると分かると思います。

ところで良質の霊界通信としては
バーバネルの「シルバーバーチ」、グレースクックの「ホワイトイーグル」、カーデックの「霊の書」などがあります。
今年日本で出版されたものとしては「セスは語る」などもとても参考になると思います。
霊を扱ったものには様々なものがあり、おかしなものもたくさんありますが多くの人の批判の目に耐えてきたものには真実があると思います。


taka kudouさんへの返事

taka kudou 様

 メールありがとうございます。返事が遅くなった上に、上げ足取りのような内容になりそうで、気が引けます。けして上げ足取りではなくて、なるべく論理的に私の考えを説明しようと思っているだけなので、どうか気を悪くせずにお読みください。

1)最初に私の考える仏教の悟りについて若干の補足を。
 我々は執着によって多くの苦しみを生み出している。執着は、世界のさまざまな現象や自分という現象を、実体的で永遠の存在であると捕らえる事に根ざしている。我々が執着する「もの」や自我は他に依存する無我なる縁起の現象であると知り、そのことによって執着を吹き消すことが悟りである。そのためには、一度きりの出来事を退屈な「いつも」に変え、現象を存在に変え、執着を生み出しているところの「いつも化システム」が停止した「主客対消滅」の体験が必要であると考える。
 (「いつも化システム」については、「あたりまえ、、」HPの小論集を御参照下さい。)
 (taka kudouさんの言葉を少し補っただけで、以下の議論とはあまり関係ありません。)

2)「悟り・境涯・意識レベルには段階があり、それに対応する世界とそこに生きるものがある」という考えについて。
 そのような段階と世界・生きるものがあるかもしれません。というか、正確に私の気持ちを言い表せば、あってもかまわない、という感覚です。それぞれの世界が、無我なる縁起の現象の世界で、そこに生きるものたちも無我なる縁起の現象であれば。
 ひとつ確認したいのは、第一の状態にある人間が正しく修行することができれば、ブラフマーカイ神として第2の状態に転生し、さらに修行転生を繰り返して、第七の段階に達するのですね。レベルアップの度に一度死んで次のレベルに生まれ変わるのですね。だとすると最後の第七段階に達した後はどうなるのでしょうか?
 A:永遠に第七レベルで生きつづける?
 B:第七レベルでの生き方によって、再び1から7のどれかに生まれ変わり、1から7の間を永遠に輪廻しつづける?
 C:第七レベルで正しく生きれば、完全に消え去り、もはや転生しない?
 もしCとお考えなら、私としてはぎりぎりなんとか妥協できるかもしれません。A,Bなら、だめです。わたしの信じる無我・縁起の教えとしての仏教と相容れないからです。
 七つの状態と二つの場所との関係がよくわからないのですが、非想非非想処には、出家後間もない、まだ苦行さえ始めていない釈尊が達したという記述があります。(当HPの小論集のコーナー、「釈尊成道の過程」を参照下さい。)
 成道前の釈尊が非想非非想処に達したのですから、レベルアップには、死んで生まれ変わるという手続きは必要ないのではないかと考えます。この身のままで、正しく修行していけば向上していけると思います。あえて転生の七つのレベルを想定しなければならない理由が分かりません。
 (「経典に書かれている事を否定するのか?!」とお思いかもしれません。私は、経典の記述には、互いに矛盾するものが多く含まれていると思います。すべての経典が、「釈尊の本心」を正しく伝えているわけではない。特に原始経典には、原始経典であるがゆえに釈尊の意図を捉え損ねている面があると考えます。このあたりについては、同じく「釈尊成道の過程」をご参照下さい。)

3)「上の境涯からすると、下の境涯は無常、無我な存在である」という考えについて。
 では、最高の境涯も、無常・無我なのでしょうか? それとも最高の境涯は永遠の実体なのでしょうか? あるいは、最高の境涯は、肉薄してはいけない、問うてはいけないのでしょうか?
 一体、釈尊は、肉体以外の存在形態を本当の自己として認めておられたのでしょうか? それともそのような存在形態は「我ならず」と否定しておられたのでしょうか? 頂いたメールではどちらのお考えなのか、判断に苦しみます。
 一部に釈尊が説かれたのは非我説であって無我説ではないと考える人がいることは聞いています。色受想行識も眼耳鼻舌身意も我ではないと説かれた釈尊は、では一体何が我だと言われたのでしょうか。
 私は、無我と縁起こそが釈尊の教えの核心と信ずるので、最高の境涯も無我であると言っていただければ、手を握り合う事が出来ます。

4)「月と指」について
 釈尊が指差してくださったことを知ろうとすれば、指差してくださった方向を正しく知らねばならないのではないでしょうか。どこでどの季節のどの時間にどの角度を指差されたのか(=どういう背景でどういう状況で誰に何を言おうとされたのか)。それを見定めなければ、「釈尊は月を示された」「太陽を示された」「北極星を示された」「XX山を示された」「カラスを示された」etc.好き勝手な議論が沸き起こって収拾がつかなくなります。せっかく釈尊が指差してくださっているのですから、その指をおろそかにしていい筈はありません。文献学をはじめとする批判的な学問研究は尊重されなければならないと考えます。それに基づいてこそ、釈尊が示してくださったものを考える事が出来ます。

5)「心霊主義と釈尊の本心」について
 XとYが同じかどうかは、Xとはなにか、Yとはなにか、それぞれ個別に検討し把握した上で言える事ではないでしょうか。それをする前に、「Xを知るためには、XとYは同じだから、Yを知れば良い」と考えるのは、順序が逆ではないでしょうか。

 ただし、XとY(釈尊の本心と心霊主義)が仮に別物だとしても、Xを理解する事にYが役立つという可能性はあります。動物行動学や分裂病論が仏教理解に新しい角度の光を当ててくれるように。
 お勧めしていただいた本を読んだ上で、あらためて心霊主義について考え、その結果をご報告したいと思います。もうしばらく時間を下さい。

 気分を害されていたら、あやまります。ごめんなさい。私自身の仏教理解と照らし合わせて理屈で考えたことですのでけして他意はありません。

 ありがとうございました。

1999、11、5、 曽我逸郎

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